「大切なのは、自己表現ではなく他者理解」 福嶋隆史さん「新共通テスト批判への批判」への感想

わたしは「ふくしま国語塾」を主催している福嶋隆史の仕事を常々尊敬しています

ふくしま式問題集はわたしも仕事用に使っています。

ここで取り上げるのは福嶋さんの論点についてなのですが
その論点以前に
わたしは「共通テスト(共通一時試験・センター試験・新共通試験)すべてを批判します。

その理由は試験内容どころか
出願日までに正式な得点が発表されていないということです。

国家事業でやる試験を事務量が多すぎるので自己採点で受験しなさいという考え方自体を受け入れることができません。
国が国の仕事を放棄しています。

これで受験者(教員も)が自分がみくびられていると思わないのは何とお人好しなんでしょうか。
(受け入れている方も悪いのですが、これも日本の学校教育の成果です。)
そんな人たちが新共通テストに反乱を起こしたということはよっぽどなことだったんでしょうね。

さて本題です。
福嶋さんの「新共通テスト」への批判への批判で
福嶋さんは「新共通テスト」への反対理由に
「ばらつきなく採点することができない」ことなどを理由にあげています。

しかし
「問い自体には相応の価値がある」としています。
※「自己表現における自由ではなく他者理解(=他者の文章の再構成)における自由。」

福嶋さんの「新共通テスト」批判への批判とは
核心部を引用すれば
『「新共通テスト」への批判で)「受験生の個性の制限」「自由の制限」を問題視するのは、やめたほうがいい。
全く思考力を測れない設問だ、というのも間違っている。』
『自由を求めるのであれば、「自己表現における自由」ではなく、「他者理解(=他者の文章の再構成)における自由」を求めればよい。「この答えは、こういう表現で言いかえることもできるのではないか」というように。それは、言葉の幅の広狭に対する注文だ。読解で許される「自由」は、そこまでである。』
ということです。

詳しくは
※「共通テスト記述式反対の私が感じる「振り回された」発言への疑問」

わたしは福嶋さんの考え抜いた答えに同感します。
「他者理解」の徹底は日本教育の成果だといえます。

しかし
必要以上に読解(他者理解)に精力をそそぐのは
わかることを拒否するような文章でも普通に理解を求めるのは
意味があるのでしょうか。
これは新井紀子さんへの疑問(『AI vs 子どもたち』)でもあります。

そこには日本独特の事情があるからです。
※「どうやったら意思が伝わるか 意思を伝える「方法」」
※ 「同じ日本語を教えていても国語教育と日本語教育は仲が悪い」

「他者理解」の訓練には反対しませんが
私的表現と公的表現を区別せずに
公的表現の正確さを求める考えがない国語教育の世界では
度を過ぎた「他者理解」の強調のしすぎは
日本独特の細やかなもてなしを生んだのと同時に
日本の社会を生きづらくしている原因にもなっています。

確かに
福嶋さんも新井さんもそれに反対しているのですが
結果として、競争入試での不必要な他者理解競争を助けることをやめなければ
不毛な他者理解競争に与していることになります。
それではこの問題を解決することはできません。

一般に日本の国語教育は入学試験の出題スタイルから読解を目的(中心)に考えています。

しかし
受け身(読解)では自分(こちら)の意志・意図を伝えることにはなりません。
わたしは日本でもすでに多文化に対応するために
受け身(読解)よりも伝えること(書くこと)を優先(必要以上の読解を求めず)にする時代が来ていると考えています。
(もともと「ふくしま式」は書くことで読む練習をするシステムなのです)

前回のPISA(OECD生徒の学習到達度調査)の出題には日本の諸氏から出題についての評価がありました。
長くなるので問題は引用しませんが「落書きについての手紙」二つを評価しなさいという問いです。

PISAを支持する立場としては
読解力とは「意見の違う他者を説得し、来るべき世界の方向を共有化する。何となく気分的にまとまるための手段ではないのだ。」という意見があります。

しかしわたしが気になったのは次の意見です。
「このふたつの文章を読んで一番に気になるのは、ヘルガとソフィアが何故この文章を書いたかです。
この文章は本当に落書きにまつわる根本問題を追求しているのではなく、相手を説得するために書かれています。
どちらも落書き問題は解決ししようとはしていません。……ヨーロッパ的な近代の知識人とは、たとえば一切現実が変わらなくとも、より巧みな否定の論理があれば、何かを語ったことになります。…」

つまり、言いたいのは
PISAが目指すのは一見「相互理解」に見えて
実は言った者勝ちの「グローバリズム(globalism)」教育であって本当の「相互理解」ではないのではないかということです。

わたしは日本の教育の現状からすると
過剰な読解力追究をやめて
わかりやすい文章を書くことを訓練の基本にすることで
PISAの考え方よりも高いレベルの訓練ができると考えます。

確かに今の条件では全員に徹底して書く練習をさせることはむずかしい。
でも
フランスではいくら費用・手間がかかっても書くことをすべての子どもに求めています。
※「哲学する子どもたち: バカロレアの国フランスの教育事情(中島さおり)」

一度に、すべてを変えなくても
まず
必要以上の「他者理解」を求めなければ
当たり前に読むことができる文なら
書くことの練習で読むことの練習ができます。

本当に読むのが文とはむずかしい言葉・言い回しを使った文ではありません。
翻訳があまりにも言葉がむずかしくわけがわからなかったので
原文を読んだらはるかにわかりやすかったこともあります。

実際、アリストテレスの翻訳文などは
日本語訳の言葉のむずかしさと比べると
英文翻訳ではおそろしく簡単な言葉で書かれていて驚いたものです。
(でも、内容はおそろしくむずかしい)

むずかしさのためのむずかしい文をなくし
まず何よりも
「日本人のためのやさしい日本語」を作っていくことが必要です。
子どもたちもいらぬことでなやまされない
オトナの学びにもつながる
せめて日本人を不幸にしない日本語を求めます。

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