『1000字でわかる教育格差(3) 国際比較で実態浮き彫り』
読売新聞の記事です。
この連載は理屈でわかりきったことを数字を挙げて確認しようという企画のようです。
わかりきったことでも数字を挙げて根拠を示すのは大切なことだと思いますが。
(常識が単なる思い込みだったりすることもあるので)
この記事の中で示されたことは
「・・・進学校であるほど平均的に生徒の出身家庭のSES(社会的経済的地位)が高い傾向を意味する。一方、「教育困難校」の生徒の大半は恵まれない「生まれ」の出身である。」
「日本の高校制度は、間接的ではあっても「生まれ」によって子供たちを物理的に隔離していることになるのだ。」
(出身家庭によって行ける学校が決まっていて、学校によって子どものあり方が変わってくるということ)
「どの国も「生まれ」によって学力に差があり、どこかの教育段階で生徒を選抜しているので、日本にそのまま移植すべき制度が海の向こうにあるわけではない。」
みんなわかりきった当たりまえのことです。
でも、わたしはここでわかりきったことを言いたいのではありません。
言いたいのは
教育格差が意味することです。
「恵まれない」出身の子が何を目指すのかということです。
高学歴が格差問題を解決すると考える人は
たとえ、その子の成績がよかったとしても
自分で家計を支えている子に
自分の将来のための蓄えを全くもたない子に
最悪の金貸し(=学生支援機構)から全額借入れして学校に行けと言うのですか。
(それだけでは足りませんね、他の金融機関からも借入れしないと無理でしょう)
※「最悪の金貸し学生支援機構 奨学金という名前の学資ローン 名前に偽りあり」
さらに
学ぶ以前の問題があります。
これまで学ぶ習慣をもてない子に
生きるためのよい習慣(=ライフスキル)がもてない子に
どうやって「恵まれた子」と同じ舞台で競争しろと言うのですか。
そもそも
この子らは能力のあるなし以前に能力の使い方を知らないのです。
そんな子たちだけが集まっている場(=学校)で
「恵まれた子」と対抗できる能力の使い方を教え訓練するのは
とてつもない費用と手間と教師の能力が必要になります。
※「欧米では自立を「人のあり方」ではなく「ライフスキル」という訓練で目指します」
もともと
同じ舞台で競争する必要などないのです。
競争すれば必ず勝者と敗者が出ます。
しかも
競争というものは必ずムダを含んでいます。
ムダと釣り合う成果が手に入る競争だけが意味のある競争です。
「機会の平等」というずるい言葉で
その現実を隠すことをやめましょう。
競争したい者には競争の機会を
競争したくない者には、競争ではなく能力の訓練を
せめて
自分、家族を養えるぐらいの収入が手に入る訓練を受ける機会を作ることです。
何の能力もない人に日本の相場の賃金なんか払えませんよ。
最後には安くこき使われている外国人労働者と競争するしかなくなりますよ。
これは半ば強制である必要があるかもしれません。
でも、それなら訓練で
やる事、やり方が効果的で効率的で
する者とされる者が対等の立場であることが条件です。
必要なのは格差をなくすことではなく
格差があってもなくても
人々が最低の人らしい生活ができる保障を自分で手に入れることができるしくみではないのですか。