わたしの国語(日本語)訓練法 訓練の順は 「書く>読む>話す」です

以前書いた文章の中では、説明なしで言語訓練の基本は「書くこと」だと言い切っています。

今日はその説明をしましょう。

#1 読む>話す

まず、最初に言わなければならないのは

言語学で言う「言語」とは話し言葉のことを指します。

これは、世界の言語学者が当たり前に認めていることです。

(日本では書き言葉が言語だと頑なに主張する学者もいます。

しかし、世界の言語は7000ほどあるといわれていますが

そのうち文字を使っているものは100ほどです)

そうすると、話し言葉の訓練をした方がいいのではないかと考えるのが普通です。

しかし、ここで取り上げているのは

学校(授業として)で学ぶという場合です。

実は、話し言葉は学校で訓練するのはとても効率が悪いのです。

外国語を学ぶ目的には二つあります。

①外国語を使う

②外国語で学ぶ

これは自分が使っている言葉でも同じことが言えます。

言葉とはもともと習慣です。

ですから、慣れることが大切です。

だから、話し言葉はある程度いいかげんでなければなりません。

話し言葉は音声としては発語とともに消えてしまいます。

話し言葉は生きものです。生成消滅(生まれては消えてゆく)するからです。

それを記録する立場が「記述文法」です。

生きているものをどうやって記録に残すかという考え方です。

「どのように」を基本にして「どうして」は重んじません。

理屈よりも起こっていることを重くみます。

それに対して

「どうして」を基本にするものを

「規範文法」といいます。

こう書く(使う)のが「正しい」という考え方です。

これは言葉の変化を認めない(認めたくない)立場でないと成り立ちません。

そうです。古典の文法(文語文法)です

死者を解剖するのと同じ理屈です。

極端ないい方をすれば

(実用訓練を除けば)学校は「正しさ」を学ぶ所なので

「規範文法」で行うことになります。

でも、これは「言葉で」を正しく学ぶためには大事なことです。

そもそも学問の手段のためにするのですから。

要は、理屈よりも慣れが大切なことは学校で学ぶのは大変効率が悪いということです。

コンピュータも学校の授業だけで使えたらたいしたものです。

ですから、学校に一番似合うのは「書く」事なのです。

いいかげんではない文章を書くときには規則にしたがって書く必要があります。

規則にしたがって訓練するのは学校の一番得意とするところです。

#2 「書く>読む」の理由

まず、

「最近は学校でプレゼンテーションの練習もさせている。

やはり、話すことは大事じゃないの。」

という意見もあると思いますが、

たいてい、話す原稿を作っているではないですか。

よい発表をしたければ、まず文章を書くことです。(以上)

確かに、書くことと比べて文章を読むことは大切じゃないわけではありません。

でも、日本の文章の読解は異常なのです。

文章を読む訓練は必要です。

しかし、問題はどんな訓練が必要なのかということです。

まず、文学作品です。

いわゆる「文学者」と呼ばれている人たちは誤解しているようですが、

いったい、学校で自分たちの作品がどう読まれているかわかっているのですか。

当然、ご自身は自分の作品でも読者に「正しい」読み方を指示できないのはわかっていますね。

一度、手を離れたら、本人でも読者の読み方の自由を奪うことはできません。

これがわかっていなければ作家をやめたらどうですか。

ところが読者の読み方の自由を平気で奪っているのが学校です。

もう学校は文学作品の「正しい読み方」をやめて

純粋に文学作品を楽しむ、

そうです受験の道具ではなく芸術を楽しむときです。

文化遺産というべき価値のあるものなら、

解釈などせずに読むだけでも十分じゃないでしょうか。

当然、規則・説明の文なら、「正しい」読みを求めないと大変なことになります。

法律や規則の文に正しい読み方がなければ、

人によって受け取り方が変わり社会が成り立たなくなります。

わたしは今回の高校国語指導要領の改訂の主旨は

日本語の実用文章があまりにも「文学的」で、

わかりにくい文章があまりにも多い現状を解決するためだと考えています。

その点では正しい考え方です。

そうすると

全員に訓練する(ある意味では強制)必要があるのはどんなことでしょうか。

書くことです。

今までの国語教育では

本当の意味で実用で伝えるための文を書くことは追究されてきませんでした。

その結果、「文学的」な解釈が必要な文章が実務であふれていました。

文章の内容は「文学的」に真意を読み取るものでした。

(いわゆる行間・紙背を読むというやつです)

だから、忖度(そんたく)も長時間労働も起こります。

カルロス・ゴーンさんの事件で明らかになりましたが、

世界のビジネス界では会社役員の成功報酬の取り決め書類は200~300ページにも及ぶようです。

「書かないとわからないことをわかるように書く」

書く文化とはそのような背景のうちに成り立っているわけです。

これがダイバシティ(多様性)の教育の基本ではないのですか。

(わたしはダイバシティの方針に反対ですが)

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