現実があって言葉が生まれるのではなく
言葉があって現実が生まれます。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」
『ヨハネによる福音書』の最初の一節です。
神(存在)の本質はコトバであるということでしょう。
李長吉(名は「李賀」「長吉」は通称)という中唐の詩人がいます。
彼の詩『巴童(はどう)答(こた)ふ』にこういう言葉があります。(巴童とは巴の地方生まれの召使いです)
非君唱楽府
誰識怨秋深
君(きみ)ガ楽府(がふ)ニ唱(とな)フルニ非(あら)ザレバ
誰(たれ)カ識(し)ラン秋(あき)ノ深(ふか)キヲ怨(うら)ムヲ
あなたが詩でうたわなければ
誰が秋のかなしみの深さを知るだろうか
人が秋にかなしさを思うのは
秋がかなしいからではなく
秋がかなしいと詩人がうたうからです。
秋はかなしさを訴えかけるわけではありません。
自然(もの)、そのものには価値はありません。
人が言葉で価値を与えるから価値が生まれます。
人はコトバによって現実をつくるのです。
コトバを磨くことは現実をつくることと等しいのです。
だから
わたしの言葉のトレーニングは今までの読解中心から書くことを中心に変えています。
最後にこんな言葉を紹介したいと思います。
特別とはどんなことか?
「才能のある選手が特別な選手だと思わないチームに不可欠な選手こそ特別な選手と言うんだ」