母親ひとり親の医療の学校の受験・修学手助けします

カテゴリー: 教育

  • 日本の大学教育は高等教育か

    ものすごく、気になっているのは日本の大学教育は高等教育かということです。
    何がというと新井紀子さんの全員大学へ行った方がいいという発言からきています。
    この人は「東大ロボ」の主任研究員で、『AIvs.教科書が読めない子どもたち』で名が売れた人です。
    彼女は注目を浴びていることと本人の実行力で世論への影響が大変大きいと思われます。
    彼女が言いたいことが大学は高等教育でないとしても学びにいったほうがいいという意味なら私は納得します。(経費の件はおいといて)
    しかし、日本の大学を高等教育と考えているなら反対します。
    普通教育と高等教育が違うことは何度か書いていますので今回は説明省略。
    現実の違いを教育内容の説明よりもデータで示しましょう。
    アイビーリーグと呼ばれる合衆国最上位の8大学があります。日本ではハーバード大学が一番有名ですね。
    聞くところによればハーバード大学の年間学費は1000万を超えるだろうといわれているそうです。
    大金持ちか給付奨学金を受けなければ通えないのです。その上日本の大学とは違って学問に専念しないと卒業できません。当然、学費を稼ぎながら通うのは無理です。つまり、学費だけではなく生活費も用意しないといけないのです。
    これは特別な例だろうと言いたくなりますが、本来、高等教育はてまひまがかかるものなのです。
    てまひまをかけない高等教育を高等教育というのには無理があります。
    だいたい、大学を高等教育だとはっきり考えている国ではほとんどが日本流に言えばマンツーマンに近い方法をとっています。
    (ただし、合衆国には日本で言うところの学校制度がないのでややこっしいです。機会があれば説明します。)
    私は私学でしたから専攻の学部生200人(一学年50×4年)に専任教員5人でした。近所の京都大学は学部くくり募集なので、年によって専攻の学生数が変わるのですが、同じ専攻系統の学生数が毎年最大数3~4人だそうですから、多くても15人以下に対して当時専任教員が私のところと同数ぐらいだったと思います。教員学生比率が10倍を超えるわけです。
    5人が200人を相手にして高等教育もあったものではありません。
    大学教育は大学教育であって高等教育ではないというなら納得します。
    彼女の真意はわかりませんが、ともかく高等教育は金がかかりすぎるのです。
    私は日本の将来はまず普通教育の内容を上げることにかかっていると思います。その上で認可基準がきびしく高価な大学ではなく、専門教育(現在の日本のほとんどの大学の教育内容は専門教育です)をもっと安く、効果的に行う制度を作ることです。私はお国の全員大学に行け方針には寒気がしています。
    日本は大国(世界200数十ヶ国で人口3000万を越える国はそうたくさんないのです。東京圏がほぼ3000万人。)で初めての普通教育と高等教育がつながる可能性があります。(本来、普通教育と高等教育は別ものです。)その上で高等教育と専門教育が選べる。これは一つの理想型です。
    ただ、みなさんの誤解を解いておきたいのは有名な合衆国のビジネススクールやロースクール、メディカルスクール(医学部)は高等教育ではなく、高等専門教育です。日本で言うところの大学院ではありません。

  • 看護師準備教育

    厚生労働省の看護師養成プログラムが専門教育であり技能教育であることは公立高校の進路指導ではほとんど理解されていません。(私学についてはよくわからないのですが、学校によって大分差があるのではないかと想像します。)生徒の方も仕事については知ることができた断片や自分の願望で考えているだけだと思います。特に大学看護学科を目指す者に対しては高校はほとんど大学任せです。その結果、ミスマッチが起こっています。
    笑い話のような話ですが、進学校の出身者が病院実習にいって初めて病人の世話をすることがどんなことか知り、(下の世話もする)退学してしまったという話も聞きました。わたしも進路指導をする中で、看護体験に行った生徒がモニターで開腹手術を見て卒倒して進路を変えたという経験があります。幸いに受験前にわかってよかったのですが。このようなことはまあ、本人が世間知らずと言われてもしょうがない範囲です。
    しかし、医療の仕事は他の仕事とは根本的に違うところがあります。それは直接他人の命に関わるということです。医療自体が人間の体や心を傷つけたり影響を与える可能性を持つ行いであることです。他の仕事でも人の命に関わることがないわけではありませんが、大きく違うことは、それを仕事にしているということです。そこから考えると、多くの場合あまりにも無造作に医療の職を選んでいる気がします。医師でさえ本人が医療にどう関わりたいかよりも、成績が良ければ医師を目指せみたいな乗りがあるように思います。
    でも、別に難しい深刻な話をしたいわけではありません。知った上で判断すればいいのです。少なくとも自分の子どもや家族のために真剣になれる人は十分に医療を仕事に選んでいいと思います。そこで「看護師準備教育」という考え方があります。(わたしは「医療・介護従事者準備教育」と一本化するのがよいと思っています。残念ながらまだ高校の進路指導ではまだはっきりと標準ができていません。だって、まだその考え方が一般化されていませんから。)実は10年ほど前に「プレナーシング(pre-nursing)」という言い方が使われ始め、定着するかと思っていました。わたしもその呼び方を使っていました。ところが、いつの間にか使われなくなっていました。調べたところ英文の意味と日本での意味が全く違っていました。合衆国の標準では入学後に看護師専門教育を受けるための基礎課程のことを指しているようです。「pre-nursing is an educational track which is designed to prepare someone for enrollment in a nursing program.」と説明してあります。
    それはさておき、公立高校では看護師準備教育は意識されずに、結果的に小論文の練習での医事知識が代わりになっているという現状があります。進路指導ではなく受験対策という形で行っているわけです。私が現役だったころ私の責任でトレーニングした生徒たちには「看護師準備教育」にそったトレーニングをしました。受験でも成果ははっきりでました。全員合格ですから。(残念ながら事情があってパーフェクトではありませんが)

    内容については、これまで
    ・職業としての医療の特殊性
    ・医療の資格制度
    ・看護師の仕事
    ・医療に従事するための考え方についての議論
    ・学校入学後のトレーニングの概要  を取り上げています

     さらに、日頃の学習トレーニングの中でも必要があれば取り上げます。

  • 高等教育と普通教育

    ☆高等教育と普通教育は全く違ったもの
    高等教育と普通教育は全く違ったものです。他に専門教育と高等専門(実務)教育というものがあります。専門教育は職業教育です。
    このことを知らずに教育に対する議論をすることには意味がないのです。
    日本と欧米では全く教育に対するあり方が違うのです。
    お互いに自分の常識に囚われ過ぎて、互の考えていることが自分と違っていることに気がつけないのです。そこに誤解が生まれます。

    日本では義務教育という呼び方をするので普通教育という言葉を知らない人が多いです。
    しかし、義務教育という考え方はほぼ日本にしかありません。(CHINAと韓国は呼び方は義務教育になっていますが実態は日本と全く違います。)
    これは多数の国では子どもに国の定めた教育を受けさせる義務がないからです。教育を受けることは国民の権利だとされているからです。国が国民の教育を受ける権利の受け皿として用意するのが普通教育です。

    ☆教育を受ける権利とはどのようなことをさしているのか。また、高等教育と普通教育の決定的な違いとは。
    普通教育の目的は能力を伸ばすことを目標にしています。それに対して高等教育は才能を伸ばすことを目的にしています。
    とりようによっては水と油の関係といっていいかもしれません。

     能力を伸ばす → 普通に生活し、働くために必要なものを学ぶこと
     才能を伸ばす → 他の人とは違った特別な力を伸ばすこと

    この二つはもともと起源が違うものなのです。
    高等教育は人間の身分に上下ができた時から始まりました。まず、上に立つ者は統治する能力を持つ必要があります。帝王教育といういい方をする人もいます。その後社会が複雑になるにつれて有能な人材がたくさん必要になりました。それで、大学という形をとっていったわけです。ですから何千年もの歴史があります。ヨーロッパではほぼ「大学=高等教育」といっていいと思います。合衆国の教育制度は制度がない制度という特殊なもので機会があれば説明したいと思います。
    それに対し普通教育はフランス革命の主張である人民主権を担う国民を育てるための教育として始まりました。その後、他の国が産業や軍事の発展のために基礎的な教育が役立つことを知り、世界中に広まっていったわけです。
    ですから、この二つは出発地点から全く違ったものです。
    よく合衆国で日本の小学生の年齢の子どもが大学で学んでいる話を聞きますが、もともと、別の系統のものだからそんなことができるのです。ですから、特に欧州の学校制度では最初に高等教育のコースに乗れなかったために、普通教育の後に高等教育を目指すことはあっても、普通教育の上に高等教育があるわけではありません。一般の人は出世を求めない限り高等教育を目指さないのは当たり前なのです。そして技術者を育てるために始まったのが専門教育です。昔の欧州では技術教育は専門教育だったのですが、20世紀になって高等専門教育は高等教育の扱いを受けるようになりました。
    よく誤解がありますが、医学教育は高等教育ではなく高等専門教育です。医学研究者養成は高等教育ですが医師養成は高いレベルではありますが技術教育です。秀才が集まることで有名な合衆国のロースクールやビジネススクールも高等実務教育です。
    本来の高等教育は才能を伸ばすために少ない学生を多くの教員で相手するもので、もともと効率を求めるものではなく、単価が高いものなのです。ですから、すべての人を相手にすることはできないし、また、才能がある者を相手にしなければ高等教育の意味がないのです。

    このような話を書いているのは、日本の事情だけで、自分たちの世界だけで、教育一般を議論することの無意味さをわかってもらいたいからです。私は専門教育を受ける人のために手助けをしていますが、特にわかってほしいのは日本の大学で高等教育に値する所はごくわずかなのです。実態の伴わない大学という名前をありがたがるのではなく、レベルの高い専門教育に誇りを持ってほしいということなのです。

  • 勉強は大人になってから

    勉強とはもともと「強いて勉めること」、つまり、自分に強制するという意味です。
    まず、このことを覚えておいてください。話を進めます。
    教育は無条件によいことになっているようです。
    だから、私はできるだけ「教育」という言葉を使わずに「トレーニング・訓練」という言い方をするようにしています。
    これは「トレーニング・訓練」という言葉を使うときは目的がはっきりしているから、可否の判断が成り立ちやすいのです。
    それに対して、教育という行為は無条件に「良いこと」ではないのに無条件に「良いこと」と誤解されています。

    教育が無条件に「良いこと」ではないとはどういうことか?
    a人は絶対的な存在(間違いのない者)であることはできないから。
    人は善を為そうとしても善を尽くすことはできず、あえて悪を為そうとしても悪さえも尽くすことはできない。
    b侵襲とは「生体を傷つけること」を言う(精神も肉体の働きの一つ)。
    以上のabが教育が無条件にいいわけではないという理由です。

    医療的侵襲といういい方があります。これは治療するためには手術をしたり薬(薬は毒でもある)を与えることをいいます。これは人を傷つける行為です。善悪を問わず人の肉体・精神に影響を与える行為を侵襲と言うことができます。肉体だけではなく精神に強制を与える行為もやはり侵襲なのです。つまり、医療者に必要なことは大きな善のために必要な悪として治療を考えるということです。
    医療従事者が医療的侵襲を意識しなければとんでもないことがたやすく起きることは当たり前にわかると思います。医療従事者がすべて医療的侵襲という考えを持っているわけではありませんが、現代医療では当然のことになりつつあります。
    教育でも同じことが成り立ちます。人間は自然状態では外からの規則・規律に従うことはありません。度合いは違っても教育は強制を含んでいます。しかし、善意であれば多少の無理は気にしないという考え方に教育業界のあまさを感じます。ただし、私は人の気持ちをくみとって人を傷つけないようにしなさいと言いたいわけではありません。善意に含まれる「悪」を意識しろということです。
    ところが、教育業界ではこの意識がないのです。目的が意味するもの、目的の質、目的に対するさまざまな費用といった考えを持たず、目的を目指すことそのものが目的になってしまうことが普通にあります。だから、危ういのです。

    最初に戻りましょう。なぜ「勉強は大人になってから」なのか。
    強制を自分から受け入れるのは大人になってからでいいということです。受け入れる方も相手の悪も含めて受け入れる必要があります。それでも目的が正しいと思えるのであればしたがいましょう。これが勉強するということです。ですから、子どもは勉強させてはいけないのです。
    動物をトレーニングするときは動物の性質にしたがわなければなりません。犬を猫の扱いで育てられないのは当たり前です。同じように子どもも人間としての性質にしたがって扱わなければなりません。こう言うと子どもを動物扱いするのかと言われかねませんが。大人であれば基本は自分の責任です。しかし、子どもに大人と同じような責任を押し付けることはできません。そして、子どもは大人に強制されないわけにはいかないのです。
    だから、大人が子ども扱うときには道理にしたがうことが大事になります。教育でその道理を行うための理論・技術を追求するのが教師の仕事のはずです。