母親ひとり親の医療の学校の受験・修学手助けします

投稿者: k.takahiro

  • 理解するとは#2

    「2)理解の基準は示せるか」を取り上げるためにまず、「誤差論」の話をします。正確にいえば「直接測定」といわれる分野の話です。
    誤差というのは普通の会話でも使うことがある言葉です。これは正しい値があって、測った数字が正しいものからずれているという考え方です。ところが、現在の工学(応用科学技術)の世界では「誤差」という言葉は使わないようになってきています。理屈の上では正しい数字はありえても、測るごとに数字が変わり、正しい値を測ることはできないという現実からきています。
    私が小学生のころ自宅から学校まで歩測するということをさせられました。まず、自分の歩幅を調べます。短い距離を何度か歩いて何歩で歩いたかを調べ、平均をとって一歩の歩幅を決めるのです。できるだけその歩幅で家から学校までを歩きます。歩数×歩幅で距離を計算することができます。伊能忠敬が日本地図を作った時にも使った方法です。実際には、素人がやるとかなりのばらつきが生まれます。現在、GPS測量やレーザー測量が普通の人でもできますから、結構正確な測量ができるはずです。
    では、歩測は間違いでGPSやレーザーは正しいのでしょうか。誤差の立場でいうとそうなります。正しい数字があってそれからどれだけ離れていると捉えればそうなりますから。しかし、それに対して現在の計測についての考え方からすると、正しい正しくないではなくばらつきの大小ということになります。ばらつきは大きくても小さくても常に測定値にはばらつきが生まれます。技術でそのばらつきを小さくしようと改良をしているわけです。

    前置きが長くなりましたが言いたいことはこうです。まさに「理解」することは計測の話と同じだと言いたいのです。正しい理解があるのではなくばらつきの中で、伝える精度受け取りの精度を高めるしかないということです。前回「理解は誤解」と言いました。その理由は二つにまとめることができます。
    ①必ず自分の意識というフィルターなしでの言語理解はあり得ない。(大前提)
    ②伝え合うことは「了解」行為であり、必ずしも理解を意味していない。(実際)
    そうすると、「理解」のために必要なのはこの二つから生まれるばらつきを小さくすることにあります。

    さて、言葉の話に戻ります。伝える目的とはどんなことなのでしょう。これは何をもって基準とするかと深いかかわりがあるはずです。
    外国人(外国文化で育った人を指します)が一方的に言いまくるので目に遭ったり、議論が好きなんだなと体感した人も多いと思います。まさに、これは理由①②からきています。もともと伝わりにくいのであれば一方的に自分の意思を伝えるために話続ければいいのです。言いたいことを言いたいだけ言えばいいのです。ここでは「意思」を(理解ではありませんよ)伝えているのですから。相手が了解してくれればいいのです。たいていの日本人はここで根負けするか、話を打ち切ってしまいます。話し手の判定勝ちです。
    ところが、相手が受けてたったらどうなるでしょう。決着がつくまでの無制限一本勝負となります。ここで初めて実務的な「理解」の必要が生まれるのです。その必要からネゴシエーション(交渉)の技術が生み出されます。彼らはお互いに理解し合えるのは幻想であると無意識にまたは意識的に体感しているので、かえって主張する必要を感じているのだと思えます。
    理屈はいいから早く実際のことを話せと言いたいと思いますが、この現実を受け入れなければ「理解の基準」の意味が伝えられません。日本では伝える意思を通す人よりも、分かってくれないとすねてしまう人が多いのです。まるで、国会の強行採決と審議拒否そのままです。なぜ、議会があるか。双方の力関係をもとに交渉して成果を得るためです。だから、みんな国会中継を見ないのです。この事実を受け入れることからしか、伝える技術が必要である意味を知り、伝える方法を受け入れて(理解とは言いません)もらえないからです。
    まだ、続きます。民事訴訟の解決方法に和解という方法があります。日本ではこじれるとすぐ裁判官が両者の主張を足して二で割りましょうと言ってきます。言い分はもっともだから仲良く引き分けなさいというわけです。ところが、合衆国では「和解とはお互いの理解を意味する」というそうです。お互いが言い分を受け入れた結論として和解の手続きをするのです。合衆国ではよく企業間で数百億単位の損害賠償訴訟が起こされます。そうすると両者の間で金額・条件を公表せずに和解の声明が出されることがよくあります。実際の和解条件は数十分の一の賠償だったり、特許の交換・提携ですませたり金が動いていないことすらあります。まず、自社は権利が侵されるとこれだけの要求をするよという意思を示すこと。同時に、もしかしたら賠償額の全額が払わされたかもしれないという脅しになります。それが回りの「理解」にもなるわけです。まさに、これがネゴシエーションなわけです。理解とは交渉が生み出すものなのです。言い換えると実務では「理解」とは「意思の理解」を意味します。
    やっと前置きが終わりました。今日はここまで、次から技術的なことを取り上げます。

  • 理解するとは#1

    わりと簡単に「理解」という言葉を使う人がいます。自分は今まで人に教えるという仕事をやってきて理解ということがどれだけやっかいなことか身にしみています。お上(中央官庁や大阪府)はわりと簡単に「理解」を連発します。理解ってそんなに軽く扱えるものでしょうか。言葉には一人歩きしてもらいたくないものです。

    「理解」がやっかいな理由
    1 理解とはもともと誤解であること
    2 理解の基準は示せるか

    今回は1)を取り上げます
    1)を見た人は「えっ」と感じたと思います。そう理解とは無条件に誤解であるです。まず、私たちがよく誤解しているのはたいていは「了解」を理解と勘違いしているということです。それを説明しようとすると難しい理屈で「第二信号系」理論というものがあるのですが、できるだけ簡単に説明します。
    いま読んでいる人は「パブロフの条件反射」略して「条件反射」という言葉は国民的教養であることは知っていると思います。ワンコにご飯をあげる話です。ご飯をあげるときにベルを鳴らすと、そのうちにベルを鳴らすだけでワンコが反応するという話です。このことを「第一信号系」といいます。意味にかかわりなく起こったことに反応するから「条件反射」というわけです。実はこのことはAIにも深いかかわりがあると私は考えていますが、いつかは考えをまとめるつもりです。
    じゃ、「第二信号系」は何かといいますと、ずばり意味ということです。はい、意味と理解は深い関係があることは何となく直感してもらえると思います。AIともかかわりがあることがわかてもらえると思います。
    私たちが意識するということは頭の中に「ぼうっ」とした言葉にならないものがまず浮かびます。たいていの場合考えるというよりもまず体の方が反応してしまいます。大事なこと注意しなければならないとき(意識化する時)は「ぼうっ」としたものをコトバに置き換えようとします。ただし、その時には意識したものをコトバにすべて置き換えることはできません。意識の中にはコトバにすると消えてしまうものが多数含まれています。つまり、言葉にする(言語化)ということは意識したものからコトバに合った部分だけを切り取る作業なのです。この次元の意識を「内言」といいます。でも、まだコトバになっただけで「言葉=言語」には成りきっていません。
    先にいきます。今度は内言を他人に伝えるということを考えます。自分の意識の中では言語化されました。ところが、発語(相手に言葉で伝える)ときに自分と他人とでは言葉が指しているものは一致できないのです。お互いの経験、文化の共通点がどれだけあるかによって全く違うイメージを持っている、比較的近いイメージを持っているとかなりの揺れがあります。ここでは同じ記号(言葉)でお互いのイメージを交換し合っているわけです。ここでお互いに起こっていることは「了解」なのです。「違うけど受け取っているよ」「わからないところもあるが受け取っているよ」ということなのです。
    ところが、ほとんどの場合そのずれがあっても気にせずに伝え合って問題にはしません。我々の会話のほとんどはぼうっと聞いていてもきっとそう言っているに違いないの範囲ですんでいるからです。ずれがありながらもどうにか大きな所では成り立っている。これはみなさんが学校や社会で訓練を受け内容よりも習慣として伝えることが成り立っているからです。つきつめれば直接目をあわせて確認をしない時などは人の話など聞かずに、そうだろうと決めつけていることが多いのです。
    ところが、それですまいないことも起きることもみなさん経験済みだと思います。どうしてもぶれを少なく相手に伝えないと困るときがあります。その時、どこまで共通のものを持てば「理解」と言っていいかは、決められません。まず、本人自身が自分の意識を完全に言語化できないところに根があるうえに、自分でない他人との意識を同じにできない「わからない」という現実があるからです。実用の立場で考えれば間違いなく定義されたものを使えば理解することができるという考え方もあります。ただし、理論的には「自然言語=人の言葉」ではいくら定義しても近づくだけで同じになることはありません。そのために人間は自然を表すため「数=数言語」というものを発明しました。本当の数学の知識とはそれを知ることから始まらなくてはなりません。
    以前、本人がよく知らない外国語の歌をヘッドホンで聴いて、そのまま歌うというTVの番組がありました。耳で聞いた通り歌えばいいのだから簡単だと思っても、みんなでたらめな言葉を歌うのです。音として聞くのと言語として聴くのは全く違う働きだからです。これはいってみれば究極の誤解でしょう。人間は音声から聞きたいものを聞いているのであって、ありのままをきくことはできないのです。というよりもありのままというものは存在できないのです。必ず自分の意識というフィルターなしでの言語理解はあり得ないのです。これが「理解は誤解」ということです。
    伝わらないものを伝えようとする努力、極端にいえば、永遠の罰に近いようなしわざ(バベルの塔の話を思い出します)を意識する時に初めて真剣な対話が成り立つのです。白人たちのネゴシエーション(交渉)という習慣には伝わらないから伝えようという意思を感じます。「理解」が意味するものへの追求もなく、そのくせに「理解」を乱発している人たちがどれだ軽い人たちであるかががわかると思います。
    今回は原則論、理論で「理解」が示すものを考えました。つきつめればということです。次は実用のための条件となる「理解」を考えます。

  • そんなに受験は簡単なのか

    この間必要なことを調べるためにぐぐっていたところあるサイトで

    「看護学校受験なら3、4ヶ月前から過去問題をやれば大丈夫だよ」というアドバイスを発見しました。書かれている内容から考えると、まずこの人は大学受験の経験があるのではないか、また、センター試験で国公立を受験しているのではないかということです。このアドバイスは信用していいのでしょうか。

    理由1 言い方からすると受験慣れしている。受験の経験がない人は不安です。

    理由2 大学受験者の多くは私学文系です。たいてい数学は選びません。だいたい看護学校は数学があるのが普通です。気軽に受験できるのは数学での受験経験があるからと考えられます。

    理由3 ここで意識されているのはおさらいです。つまり、彼女はもともと数学が解けるということです。

    まあ、何が言いたいかというとこのアドバイスは高卒、大卒でも数学で受験した経験がない人には役に立たない、(英語はさておいても)むしろ、有害だということです。合格するためには自分を知ることです。能力がある人は自分で合格してください。

    私が相手をしたい人は一から始めないといけない人です。自分の力が自分ではわからない人です。特に真剣に受験した経験のない人には受験だけでプレッシャーになります。また、実際に何人も見てますが、力がない子が幸運で合格しても専門学校の授業は高校とは違います。教えないわけではないのですが、高校のようには教えてくれません。その結果、自立しない人は不合格点をもらいます。

    時間のない人余裕がない人には大変ですが、合格すること、入学してからついていくためには基本からやり直すことが最も近道になります。