母親ひとり親の医療の学校の受験・修学手助けします

投稿者: k.takahiro

  • サイトの運営の方針についてのお知らせ

    これまで、本サイトを私のメインサイトとして位置づけてきました。
    しかし、現在、アメブロ「母親ひとり親の医療の学校の受験・修学手助けします」に毎日新規記事を投稿しています。
    同じ内容での二重投稿を避けるために本サイトは更新の回数が減っています。
    それで、サイトの役割を分担することにしました。
    アメブロで表示できない。商業利用の内容、特に契約関係の文面を中心のサイトにすることとします。
    記事についてはアメブロ契約関係については本サイトでご愛顧たまわりたいと存じます。

  • 《書評》この本のおかげで30年来の疑問が解けました

    中島 さおり 著 『哲学する子どもたち: バカロレアの国フランスの教育事情』

    日本ではよく教育制度は英米とひとまとめにされることが多いのですが、米国の制度は実はフランスの影響の方がはるかに大きいことがよくわかります。日本ではフランスの学制がほとんど知られていない、または 誤解されています。私もフランスの学制がわかって始めて米国の学制?(米国には日本で言う学制はありません)が理解できました。(ビジネススクールはフランスが発祥であることがよくわかります)
    30年以上前フランスの学制の根本がリセ(当時は旧制高校、現在の制度ではハイスクールの扱いになっている)にあり、すぐれた仕組みであると聞き、実用に結びつけるため手がかりを求めました。フランス語ができないため、ネットがない時代だったので、日本の研究者の説明でしか知る手立てはなかったが、わけがわかりませんでした。その後20年以上調べるのをやめていました。
    偶然この本を手に入れて、説明のわけがわからなかった理由が研究者自身の理解がみな的はずれだったせいであることに気づきました。(彼らは研究者であっても実行者でなかったからだと思います)それに対して、筆者の説明でフランスの学制の核心を驚くほどはっきりつかむことができました。(内容はさりげなく書かれていますが、筆者はかなり高い知性の持ち主だとお見受けします)
    そして、読んですぐに、長年の仕事でバラバラに作ってきたパーツを結びつける糸がみつかりました。現在でも国語教育の本流である「共感の共有で理解しあう(文学教育主義)」に対して私が求めてきた「正確に意思を伝える(公的日本語表現)」を行う具体的なトレーニングのしくみが組み上がりました。そして、「論文トレーニングシステム」として、三ヶ月ほどで定年前の最後の仕事、同時に再出発の最初の仕事としてまとめることができました。
    考えてみれば、それまでの30年間の遠回りはいったい何だったのでしょうか。つくづく、よい本は遠くの見えないものを目の前で見せてくれることを実感しました。著者に深く感謝します。

  • 《書評》「わかる」という言葉は何ともやっかいなものだ

    新井紀子 著 『AI vs. 教科書が読めない子どもたち 』

    出版されてすぐぐらいに買ったが、「日本語がわからないから問題が解けないだけだ」という氏の主張は正しいが違和感をずっと感じていた。何がどうなのかずーっと考えてきた。氏の考えている事業が子どもの日本語能力を上げることができるかという疑問だ。
    特に、日本の大学の現状を考えると「みんな大学に行きなさい」には根本的な疑問を感じた。著者の言動は善意である。だから、なおさらミスリードの影響力が大きい。あえて発言する。
    結論からいう。著者の主張は自分の体験であって、ヒトと言葉の関係ついてはよく考えていない。
    どういうことかと言うと「日本語がわからないから問題が解けないだけだ」という事実は正しい。だが、ここでわりと簡単に使っている「わかる・理解する」という言葉が、わかるということをどこまで追求しているのか。(ここが機械も知能をもてるかという根本なのだが)
    自分がわかりすぎる人はわからない人のことはわからないからだ。
    私は退職するまでほとんどの職業人生を自分から相手の話を聞いてくれない子どもたちを相手にしてきた。そして、「理解は誤解であるという考え方」に達した。
    たいていの場合、人は聞いた振りをして自分の都合で相手の話を受け止め、ほとんど話の内容を聞いていない。実際、普段の生活ではほとんどの場合それで困らない。私たちの普段の生活で厳密な理解を求められることはほとんどない。学問や精密な確認を求められる仕事だけがいいかげんを許さない。たいていはお互いの勝手な理解(誤解)で用事は済んでしまう。(「こんにゃく問答」状態です)
    ヒトは自分が聞きたいようにしか聞かない。
    唯一、数言語(数学)の世界だけが、ほぼそれを許さない。(それでも、数学者は結構自分の趣味で言葉を使っているけど)だから、数学をいやがる子が多い。また、教える方も問題が解けても数学で何を教えるかがわかっているとはかぎらない。教育数学(数学ではない)の本質は数学的考えではなく、「数という言語」を使った言語訓練だ。
    自然言語(数言語ではないもの)でも、観念(私的思考)を概念(共通の定義)に高めることで誤解の幅を狭めることができる。
    あえて言えばそれを突き詰め、訓練することから始まるのが高等教育だ。すべての学の基本がそこにある。これを求めない、求めることができない大学教育は高等教育ではない。
    感情の共有を最高のものとする国語教育では、わかり合えない他者との泥沼のような伝え合いに汗を流す訓練、または相手を力ずくで説き伏せる考え・訓練が決定的に欠けている。だから、「氏がわかるようにはみんなはわからない」
    氏の私財を使った啓蒙活動を尊敬する。しかし、本人が力を入れているわりには空回りする気がする。理由は述べたとおり。「わかる」ということは氏が思っているよりははるかにやっかいなものだ。

  • パンフレット作りました

    パンフレット作りました。ダウンロードできます。

    パンフレット

  • なぜ、有料で合格報酬なのか(6)

    あなたのために3

    合格報酬延べ払いなので、払っている間は相談しやすい
    ここ20年間の医療の学校のレベル低下は目を覆うばかりで、入学よりも修学のほうが難しくなっています。以前は入学試験が難しかったので入学者はたいてい卒業できました。しかし、今では卒業できない者でも入学させないといけない状況なのです。看護学校では入学者の3分の1が中退する学校も珍しくはありません。
    ですから、入学後の学習に耐えられる訓練をすることを目的とし、受験技術よりも基礎を身につけることで入学試験に合格できるようにします。本来は卒業保証と言いたいところですが、入学後はその学校にまかせるしかありません。それでも困ったことには卒業するまでは力になりたいと思います。その時は報酬支払いをしている方が気安く頼ることができると思います。