《書評》「わかる」という言葉は何ともやっかいなものだ

新井紀子 著 『AI vs. 教科書が読めない子どもたち 』

出版されてすぐぐらいに買ったが、「日本語がわからないから問題が解けないだけだ」という氏の主張は正しいが違和感をずっと感じていた。何がどうなのかずーっと考えてきた。氏の考えている事業が子どもの日本語能力を上げることができるかという疑問だ。
特に、日本の大学の現状を考えると「みんな大学に行きなさい」には根本的な疑問を感じた。著者の言動は善意である。だから、なおさらミスリードの影響力が大きい。あえて発言する。
結論からいう。著者の主張は自分の体験であって、ヒトと言葉の関係ついてはよく考えていない。
どういうことかと言うと「日本語がわからないから問題が解けないだけだ」という事実は正しい。だが、ここでわりと簡単に使っている「わかる・理解する」という言葉が、わかるということをどこまで追求しているのか。(ここが機械も知能をもてるかという根本なのだが)
自分がわかりすぎる人はわからない人のことはわからないからだ。
私は退職するまでほとんどの職業人生を自分から相手の話を聞いてくれない子どもたちを相手にしてきた。そして、「理解は誤解であるという考え方」に達した。
たいていの場合、人は聞いた振りをして自分の都合で相手の話を受け止め、ほとんど話の内容を聞いていない。実際、普段の生活ではほとんどの場合それで困らない。私たちの普段の生活で厳密な理解を求められることはほとんどない。学問や精密な確認を求められる仕事だけがいいかげんを許さない。たいていはお互いの勝手な理解(誤解)で用事は済んでしまう。(「こんにゃく問答」状態です)
ヒトは自分が聞きたいようにしか聞かない。
唯一、数言語(数学)の世界だけが、ほぼそれを許さない。(それでも、数学者は結構自分の趣味で言葉を使っているけど)だから、数学をいやがる子が多い。また、教える方も問題が解けても数学で何を教えるかがわかっているとはかぎらない。教育数学(数学ではない)の本質は数学的考えではなく、「数という言語」を使った言語訓練だ。
自然言語(数言語ではないもの)でも、観念(私的思考)を概念(共通の定義)に高めることで誤解の幅を狭めることができる。
あえて言えばそれを突き詰め、訓練することから始まるのが高等教育だ。すべての学の基本がそこにある。これを求めない、求めることができない大学教育は高等教育ではない。
感情の共有を最高のものとする国語教育では、わかり合えない他者との泥沼のような伝え合いに汗を流す訓練、または相手を力ずくで説き伏せる考え・訓練が決定的に欠けている。だから、「氏がわかるようにはみんなはわからない」
氏の私財を使った啓蒙活動を尊敬する。しかし、本人が力を入れているわりには空回りする気がする。理由は述べたとおり。「わかる」ということは氏が思っているよりははるかにやっかいなものだ。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする