習うより慣れろは正しい。
しかし、そこに落とし穴がある。
その人の才能に頼ることになるからだ。
才能がない人はやはりできない。
また、遠回りになることがある。
また聞きの話だが、
かつて、学校で教わらずに二次方程式の解の公式を自力で見つけた人がいたそうだ。
誰の助けも借りずに20年以上かかったそうだ。
学校で教われば1日で終わったかもしれない。
それでも、習うより慣れろは正しい。
一番の問題点は教師に教える力がないことだ。
いくら教えても本人がわからなけらばわからない。
教師の力は知識を与えることではない。
①子どもの観念を概念に高めること。
人間は観念を持つ。観念は自分の世界からみたもののとらえ方。主観的なもの。
概念ももののとらえ方だが、自分の思い込みではないより客観的なもの。
人はコトバを通じて観念・概念を使うことで行動する。
我々は観念を概念に高めれば、よりよく世界を知り、よりよく生きることができる。
加えて
②その子に応じたメニューを作ること。
③トレーニングの成果をみきわめスケジュールを管理すること
それがうまくいけばその子は自分で学ぶことができるようになる。
学校では実際には一人一人を相手にできない。
だから、全体をおさえながらできる範囲で個人に対応するしかない。
そこで、トレーニングシステムが必要になる。
このようなトレーニング方法、システムがないから、結局、個人の努力・才能に頼る事になる。
これが日本の教員養成の欠陥である。子どもにも無理な努力・才能を要求することになる。
欧米ではシステム的考え方はあるが、普通教育の教員の質が低い。
それは、普通教育の教員の待遇が低いので、社会的地位が低く尊敬されない。
それで人材が集まらない。普通教育のレベルが上がらない。
それに比べると日本の教員の待遇は良く、質が高く、潜在能力が高い。
しかし、残念なことに人材を活用する方法を知らない。
フィンランド教育への勘違い
日本ではフィンランド教育の評価が異様に高いがそこには誤解がある。
まず、条件が違いすぎる。
人口540万人ほどの小国で、国内だけで資源も労働市場も自給できないから、結局、国外を相手に仕事をするしかない。
国内では外国に売れるものを作り、国外では働く者は幹部にならないと国が豊かにならない。
そのため国民全体に高等教育を要求する。
実際に、医療や福祉は決まった予算の総額を就業人数で割る形なので賃金が安い。
医師でも給与は高くない。医療・介護になると並の給与である。
普通教育では競争をさせなくても、日本と比べて高等教育のレベルと競争が恐ろしく厳しい。
「子どもにフィンランドで高等教育を受けさせるのはかわいそう(在留邦人談)」
それでも、完全に業種・職種ごとに誰が働いても賃金が同じなので、同じ賃金を払うならば言葉が通じる自国民を雇うことになる。
外国の安い労働者の就労は抑えられ、国内の就労は守られている。
ここまで考えると、意外にも他の欧州諸国と比べると「権利としての学習」というよりも国策としての学習の性質が強いことがわかる。
印象とは違い。存外、自己本位な国である。小国だから許され、成り立っていられるといえよう。
フィンランドは世界で二番目に普通教育と高等教育を接続した国である。
(もともと普通教育と高等教育は別の性質のものである。「普通教育と高等教育」で説明)
意外なことに、制度としての普・高接続の世界初は日本だった。
敗戦後の学制改革で普通教育の教員資格を大卒(理念としては高等教育を受けた者)とした。
旧制の師範学校(小学校教員養成)は中等教育、つまり、現在の高卒という事になる。
残念ながら、日本は世界初の快挙を生かしきれていない。