なぜ、有料で合格報酬なのか(3)

私は人として対等の関係を求めます。
そのために私はあなたに雇われます。その関係はちょうどプロテニスの個人コーチを頭に浮かべてもらえばいいと思います。

日本には平等がありません。有名な福沢諭吉のことばは「天賦人権論=人間は生まれながら平等である」を主張したものではありません。
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず『と云へり』」(と云えり=~だそうだ)と言っています。
平等は誰かがくれるものではありません。自分で手に入れるのでなければ誰も保証してくれません。
施されるのは対等の関係の否定です。「支援がもたらす贈与の負債」という考え方があるそうです。
これは「一見困っている人を助けるのは良いことにみえるが、実は相手に負い目を持たせるもの」だということです。
特に、ただで与えることは相手との上下関係を作ってしまうことになります。

日本の社会で重大な問題になっている「日本型パワーハラスメント」「長時間労働」の根は日本には平等がないことからきています。職場の上下、役割の上下は人間としての上下ではありません。ところが、日本では職場や役割を離れても上下関係から離れることができません。法律・規則を作っても人間は仕事・役割を離れれば平等であるということが当たり前にならなければ、このようなことがらは解決できないだろうと私は考えています。だから、金で雇われた平等な契約関係という考え方は大事なのです。

もっといやらしい上下関係というものがります。
自分が尊いのは相手よりも道徳的に高いからだという考え方です。道徳的にどうかは信頼関係であり上下関係とは別の事です。
しかし、道徳的な上下を手段に使えば自分はいつも相手より高い立場にいることができます。
逆のいい方をすれば自分の立場より劣る者は道徳も劣っていることになります。

私の文明に対する考え方は「信義」が基本にあります。「信義」のない文明を文明と呼ぶのにはふさわしいと思えません。いってみれば法に触れないかぎりどんな方法を使っても財産を作った者が勝ちだという社会には住みたくありません。
でも、信義は0か1ではありません。0なら当然なしですが、1~100の幅があると思います。1でもそれなりの信義を守ろうとした結果かもしれません。その中で誠実に生きる努力をするのが人間だと思っています。

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