理解するとは#1

わりと簡単に「理解」という言葉を使う人がいます。自分は今まで人に教えるという仕事をやってきて理解ということがどれだけやっかいなことか身にしみています。お上(中央官庁や大阪府)はわりと簡単に「理解」を連発します。理解ってそんなに軽く扱えるものでしょうか。言葉には一人歩きしてもらいたくないものです。

「理解」がやっかいな理由
1 理解とはもともと誤解であること
2 理解の基準は示せるか

今回は1)を取り上げます
1)を見た人は「えっ」と感じたと思います。そう理解とは無条件に誤解であるです。まず、私たちがよく誤解しているのはたいていは「了解」を理解と勘違いしているということです。それを説明しようとすると難しい理屈で「第二信号系」理論というものがあるのですが、できるだけ簡単に説明します。
いま読んでいる人は「パブロフの条件反射」略して「条件反射」という言葉は国民的教養であることは知っていると思います。ワンコにご飯をあげる話です。ご飯をあげるときにベルを鳴らすと、そのうちにベルを鳴らすだけでワンコが反応するという話です。このことを「第一信号系」といいます。意味にかかわりなく起こったことに反応するから「条件反射」というわけです。実はこのことはAIにも深いかかわりがあると私は考えていますが、いつかは考えをまとめるつもりです。
じゃ、「第二信号系」は何かといいますと、ずばり意味ということです。はい、意味と理解は深い関係があることは何となく直感してもらえると思います。AIともかかわりがあることがわかてもらえると思います。
私たちが意識するということは頭の中に「ぼうっ」とした言葉にならないものがまず浮かびます。たいていの場合考えるというよりもまず体の方が反応してしまいます。大事なこと注意しなければならないとき(意識化する時)は「ぼうっ」としたものをコトバに置き換えようとします。ただし、その時には意識したものをコトバにすべて置き換えることはできません。意識の中にはコトバにすると消えてしまうものが多数含まれています。つまり、言葉にする(言語化)ということは意識したものからコトバに合った部分だけを切り取る作業なのです。この次元の意識を「内言」といいます。でも、まだコトバになっただけで「言葉=言語」には成りきっていません。
先にいきます。今度は内言を他人に伝えるということを考えます。自分の意識の中では言語化されました。ところが、発語(相手に言葉で伝える)ときに自分と他人とでは言葉が指しているものは一致できないのです。お互いの経験、文化の共通点がどれだけあるかによって全く違うイメージを持っている、比較的近いイメージを持っているとかなりの揺れがあります。ここでは同じ記号(言葉)でお互いのイメージを交換し合っているわけです。ここでお互いに起こっていることは「了解」なのです。「違うけど受け取っているよ」「わからないところもあるが受け取っているよ」ということなのです。
ところが、ほとんどの場合そのずれがあっても気にせずに伝え合って問題にはしません。我々の会話のほとんどはぼうっと聞いていてもきっとそう言っているに違いないの範囲ですんでいるからです。ずれがありながらもどうにか大きな所では成り立っている。これはみなさんが学校や社会で訓練を受け内容よりも習慣として伝えることが成り立っているからです。つきつめれば直接目をあわせて確認をしない時などは人の話など聞かずに、そうだろうと決めつけていることが多いのです。
ところが、それですまいないことも起きることもみなさん経験済みだと思います。どうしてもぶれを少なく相手に伝えないと困るときがあります。その時、どこまで共通のものを持てば「理解」と言っていいかは、決められません。まず、本人自身が自分の意識を完全に言語化できないところに根があるうえに、自分でない他人との意識を同じにできない「わからない」という現実があるからです。実用の立場で考えれば間違いなく定義されたものを使えば理解することができるという考え方もあります。ただし、理論的には「自然言語=人の言葉」ではいくら定義しても近づくだけで同じになることはありません。そのために人間は自然を表すため「数=数言語」というものを発明しました。本当の数学の知識とはそれを知ることから始まらなくてはなりません。
以前、本人がよく知らない外国語の歌をヘッドホンで聴いて、そのまま歌うというTVの番組がありました。耳で聞いた通り歌えばいいのだから簡単だと思っても、みんなでたらめな言葉を歌うのです。音として聞くのと言語として聴くのは全く違う働きだからです。これはいってみれば究極の誤解でしょう。人間は音声から聞きたいものを聞いているのであって、ありのままをきくことはできないのです。というよりもありのままというものは存在できないのです。必ず自分の意識というフィルターなしでの言語理解はあり得ないのです。これが「理解は誤解」ということです。
伝わらないものを伝えようとする努力、極端にいえば、永遠の罰に近いようなしわざ(バベルの塔の話を思い出します)を意識する時に初めて真剣な対話が成り立つのです。白人たちのネゴシエーション(交渉)という習慣には伝わらないから伝えようという意思を感じます。「理解」が意味するものへの追求もなく、そのくせに「理解」を乱発している人たちがどれだ軽い人たちであるかががわかると思います。
今回は原則論、理論で「理解」が示すものを考えました。つきつめればということです。次は実用のための条件となる「理解」を考えます。

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