勉強とはもともと「強いて勉めること」、つまり、自分に強制するという意味です。
まず、このことを覚えておいてください。話を進めます。
教育は無条件によいことになっているようです。
だから、私はできるだけ「教育」という言葉を使わずに「トレーニング・訓練」という言い方をするようにしています。
これは「トレーニング・訓練」という言葉を使うときは目的がはっきりしているから、可否の判断が成り立ちやすいのです。
それに対して、教育という行為は無条件に「良いこと」ではないのに無条件に「良いこと」と誤解されています。
教育が無条件に「良いこと」ではないとはどういうことか?
a人は絶対的な存在(間違いのない者)であることはできないから。
人は善を為そうとしても善を尽くすことはできず、あえて悪を為そうとしても悪さえも尽くすことはできない。
b侵襲とは「生体を傷つけること」を言う(精神も肉体の働きの一つ)。
以上のabが教育が無条件にいいわけではないという理由です。
医療的侵襲といういい方があります。これは治療するためには手術をしたり薬(薬は毒でもある)を与えることをいいます。これは人を傷つける行為です。善悪を問わず人の肉体・精神に影響を与える行為を侵襲と言うことができます。肉体だけではなく精神に強制を与える行為もやはり侵襲なのです。つまり、医療者に必要なことは大きな善のために必要な悪として治療を考えるということです。
医療従事者が医療的侵襲を意識しなければとんでもないことがたやすく起きることは当たり前にわかると思います。医療従事者がすべて医療的侵襲という考えを持っているわけではありませんが、現代医療では当然のことになりつつあります。
教育でも同じことが成り立ちます。人間は自然状態では外からの規則・規律に従うことはありません。度合いは違っても教育は強制を含んでいます。しかし、善意であれば多少の無理は気にしないという考え方に教育業界のあまさを感じます。ただし、私は人の気持ちをくみとって人を傷つけないようにしなさいと言いたいわけではありません。善意に含まれる「悪」を意識しろということです。
ところが、教育業界ではこの意識がないのです。目的が意味するもの、目的の質、目的に対するさまざまな費用といった考えを持たず、目的を目指すことそのものが目的になってしまうことが普通にあります。だから、危ういのです。
最初に戻りましょう。なぜ「勉強は大人になってから」なのか。
強制を自分から受け入れるのは大人になってからでいいということです。受け入れる方も相手の悪も含めて受け入れる必要があります。それでも目的が正しいと思えるのであればしたがいましょう。これが勉強するということです。ですから、子どもは勉強させてはいけないのです。
動物をトレーニングするときは動物の性質にしたがわなければなりません。犬を猫の扱いで育てられないのは当たり前です。同じように子どもも人間としての性質にしたがって扱わなければなりません。こう言うと子どもを動物扱いするのかと言われかねませんが。大人であれば基本は自分の責任です。しかし、子どもに大人と同じような責任を押し付けることはできません。そして、子どもは大人に強制されないわけにはいかないのです。
だから、大人が子ども扱うときには道理にしたがうことが大事になります。教育でその道理を行うための理論・技術を追求するのが教師の仕事のはずです。