理解するとは#3 意思を伝える「方法」と「内容」

まず、伝えるということは観念をコトバに託したキャッチボールをいいます。
観念とは自分の頭の中にある思いです。それをコトバという枠で切り取って相手に投げます。すると受けとった相手はコトバの枠から自分の経験や知識を参考に自分なりに解読します。この繰り返しとなります。

先にもいいましたが、日常生活で言葉が通じている理由は皮肉なことに言葉がいいかげんだからです。普段の生活ではなんとなく、なあなあでもお互いが納得すれば何の問題もないわけです。共通の経験がお互いの意思を読み取ります。コトバのキャッチボールは理解ではなく了解なのです。不都合が起きてはじめて問題になるのです。ところが、事が重大になるとごめんではすまなくなります。自分の思い込みを越えて伝える方法が必要になります。

意思を伝える「方法」には次の二つがあります。
a 論理的合理的なものを基礎にする
b 感情でつながる

aで、伝える正確さを上げるためには観念をより共通度が高い概念に高め、伝える形式を整えることが必要です。「観念」とはその人の思い込み(自分勝手であろうが、より広い立場であろうが)と考えてください。それに対して「概念」とは観念と比べて、より共通でより詳しくぶれが少なくなるように決められた考えを指します。
共通の議論をするためには「概念」を身につける必要があります。そのために学びが必要なのです。

b 感情に訴え共感の幅を広げる。これは同じ言葉・文化で生きている者同士であれば自然に起こることです。これを忖度(そんたく)と言います。(もともと「忖度」は相手の気持ちを推し量って思いやることです)でも、忖度は自然に起きるわけではありません。共通の感情を持つためには訓練がいります。昔は近所・親類の付き合いで教えるものでしたが、現在ではその習慣も減りました。そのため学校教育の大きな目的の一つになっています。特に国語教育の主流である「文学主義」(=文学作品を通して相手を思いやる練習をする)は忖度の練習と言ってもよいでしょう。

さらに伝える「内容」として次の二つがあります。
α 公的表現
β 私的表現

当然、公教育で優先して身につけるべきものは公的表現のはずです。「公」教育なのですから。
今までの国語教育では公的表現の基礎は共感技術だと考えられてきました。そのため、自分の意思を他人に伝える技術が追求されることは置き去りにされてきました。
相手に内容を伝えるためには、今ここでの説明だけではなく、背景にあるものの了解から始めないと話そのものが受け取れません。つまり、主張の根拠を示す訓練とそこから理屈を導く訓練が必要なのです。
厳しく言えば他の国では、自分の考えをわからないのはわからないお前が悪いという発想で相手が屈服するまで主張することが当たり前になります。それに対して、日本では相手の気持ちをよむことで解決しようとするのです。
お互いが主張を取り下げないから、ここで初めて本当の公的表現の必要が生まれます。
これは人の平等とも深くかかわっているのです。たてまえだけでも人が平等であれば問題解決には、筋道での主張が必要になるのです。忖度には必ず上下関係が含まれます。

日本の国語教育には私的表現と公的表現がちがうものと考え、公的表現の正確さを求める考えがありません。この分け方がないので感情の共有を理解と考え、理解し合えるという思い込み、言い換えれば思い込みの強制が起こります。
「共感」「共通の生活」「共通のあり方」これが実用的な価値としてのこれまでの国語教育の到達点でした。しかし、これは「閉鎖的」「排他的」「形にはまった」「強制」「あいまいさ」といったような多くの問題点を生んでいます。問題点は外の人に対するものだけではなく、言語がうまく働かないことからくる作業の非効率でわれわれを苦しめています。「事務・実務の非効率」「長時間労働の原因」「日本の生産性の低さ」は日本語の実用言語技術が低いから起こっていることです。
日本型「いじめ」も根は日本語(社会)環境にあると考えられます。欧米では子どものトラブルは暴力型が多いのですが、日本ではいやがらせ型が多いのです。(英文では日本で言う「いじめ」を指す言葉はないようです)暴力はいじめではなく暴力です。

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