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カテゴリー: トレーニング

  • 論文は起承転結で書いてはいけない。

    論文は起承転結で書いてはいけない。
    それは文学(作詩)の作法だからです。
    論文とは公的な発言の方法です。
    筋道を追うことを考えれば起承転結は非常にまずい方法です。
    では、なぜそんな習慣があったのか。
    日本の国語教育は文学教育です。
    日本では言語教育を文学教育で行う理由がありました。
    文学教育は共感を身につけるものだからです。

    人が伝え合う方法は二つあります。
    ①論理(筋道)で伝える。
    ②感情を分け合う。
    習慣や言葉が近い者たちが暮らす日本では②が有効です。
    ただ、残念ながら感情を分け合うことは感情の強制も意味します。
    共通でなければ伝わらないからです。
    その結果、国語教育は共感を分け合う文学教育となります。(まさに忖度です)
    そして、感情を分け合うためには感情にも正解を求めます。
    これが読解問題に正解を求める理由です。
    そんなわけで、公的な発言の書き方教育がありません。
    結果、日本では「私(わたくし)→感情」と「公(おおやけ)」の区別がつきにくいのです。
    「炎上」と言う感情での攻撃の現象もその結果だと考えられます。

    しかし、
    習慣や言葉が離れた者たちがいっしょに暮らすところでは②は役にたちません。
    感情を分け合う習慣がないからです。
    たいていの国では違った言語、習慣の人々同士が暮らしているのが普通です。
    そこで普通に公的な発言の訓練が必要となります。
    お国の政策では日本も近い将来、普通の国になるしかありません。

    ただし、私は文学教育を否定するものではありません。
    もともと、言語は「公と私」→「論理と感情」からできています。
    その両方ともあるのが普通です。
    しかし、日本では「公」の部分の言語教育が欠けていたことがまずいのです。
    ですから、まず急ぐのは「公の表現」の訓練の方法を研究をして、実行することです。
    さらに、はっきり役割がわかった上で文学教育の方法を組み立てることです。
    それで、効果があり、日本語の真髄も伝える事ができる言語教育ができます。

  • ことばを学ぶ、ことばで学ぶ -トレーニング方法について-

    教育は「普通教育」「専門教育」「高等教育」「高等専門教育」に分ける事ができます。
    私の考えは詳しくは「高等教育と普通教育」を見てください。
    ここでは普通教育の話をします。
    普通教育とは言葉を学び、言葉を通して学ぶこと。
    学ぶ言葉は三種類。
    ①母語(生まれながら話している言葉)
    ②外国語
    ③数言語(数学)

    さらに、その応用として
    a科学
    b社会の知識(法律・習慣・マニュアルの理解・・・)
    c技術
    があります。

    ◎何を学ぶのか
    ①母語
    自分の頭に浮かんだイメージ(観念)を元に自分の意思や感情をまわりと伝え合う能力を上げるためです。より正確に伝え合うためには観念を概念(共通のイメージ)に変える力が必要です。
    ②外国語
    その言葉を使っている人と伝え合うためですが、それ以上に母語の能力を上げることができます。母語だけでは気づかないことに気づくことができるという利点があります。
    ③数言語
    言葉を上達させることとは、自分だけの観念を共通の概念に高め、それによって伝え合う能力を上げることです。
    数言語は純粋な概念だけでできあがった言葉です。概念は純度があがるほど言葉が正確になっていきます。
    数言語を上達させるということはより高度な伝え合う能力を手に入れる訓練です。

    ①~③を上達させることでa~cの力を効率よく高めることができます。
    そのためには次のような基本トレーニングを考えています。
    基本トレーニングは共通ですが、その後は一人一人に合せてメニューを作ります。

    ◎基本トレーング
    ①母語 論文を書く力。書く力を中心にトレーニングします。難問を解く力は求めません。普通の文章であれば正しく文章を読む力は書くことで身につきます。さらに、近い将来、受け身で他人の文章を理解する時代は終わります。自分が何をどのように主張するかという時代に変わります。
    ◆福島式を基本にトレーニングをして、終了後フランススタイルで論文を書くトレーニングをします。その上で読解問題を解きます。

    ②外国語 言葉とは合理的ですが論理的でありません。言い換えれば、言葉には成り立たせている理屈がありますが、規則でできているわけではありません。つまり、母語を使うことと外国語を使うことの違いは、母語は間違っても母語らしく間違い、外国語で間違う時にはおかしな間違い方をするということです。変ないい方ですが、まちがっても母語、正しくても外国語だということです。ですから、外国語を学ぶには場数を踏んで慣れるしかありません。ただし、目的は学校の試験に通ることですから、受ける入学試験の範囲で慣れることをします。
    ◆一番よい慣れる方法は体感することです。まず、体感するためにフォニックス、リズム音読をやります。終了後に、その人に応じた文法の基礎、次に簡単な英文をたくさん読みます。英文の感覚に慣れたら、入学試験問題を解きます。
    ③数言語 数学の基礎をやり、数のしくみに慣れてもらいます。同時に基本計算を通して数の扱いに慣れてもらいます。その後で入学試験問題で解き方トレーニングをします。
    ◆数学の根元の考え方、なぜそうなるか、疑問に答える中で、インド式計算、平方根、累乗、文字式の計算に慣れていきます。さらに、一次・二次方程式、関数、三角比、確率を中心に学び、その上で入試問題に取り組みます。

    ※以上の内容は看護学校の受験(高卒)を中心に考えています。準看護学校は中学卒の受験条件なので、内容・科目数が違いますので、基本トレーニングは①国語は同じ、②英語もほぼ同じ、③数学は基本は同じですが、科目内容は大分変わります。理科・社会も入学試験にはありますが、対応します。

    ◎何を学ぶのか
    ①母語
    自分の頭に浮かんだイメージ(観念)を元に自分の意思や感情をまわりと伝え合う能力を上げるためです。より正確に伝え合うためには観念を概念(共通のイメージ)に変える力が必要です。
    ②外国語
    その言葉を使っている人と伝え合うためですが、それ以上に母語の能力を上げることができます。母語だけでは気づかないことに気づくことができるという利点があります。
    ③数言語
    言葉を上達させることとは、自分だけの観念を共通の概念に高め、それによって伝え合う能力を上げることです。
    数言語は純粋な概念だけでできあがった言葉です。概念は純度があがるほど言葉が正確になっていきます。
    数言語を上達させるということはより高度な伝え合う能力を手に入れる訓練です。

    ①~③を上達させることでa~cの力を効率よく高めることができます。
    そのためには次のような基本トレーニングを考えています。
    基本トレーニングは共通ですが、その後は一人一人に合せてメニューを作ります。

    ◎基本トレーング
    ①母語 論文を書く力。書く力を中心にトレーニングします。難問を解く力は求めません。普通の文章であれば正しく文章を読む力は書くことで身につきます。さらに、近い将来、受け身で他人の文章を理解する時代は終わります。自分が何をどのように主張するかという時代に変わります。
    ◆福島式を基本にトレーニングをして、終了後フランススタイルで論文を書くトレーニングをします。その上で読解問題を解きます。

    ②外国語 言葉とは合理的ですが論理的でありません。言い換えれば、言葉には成り立たせている理屈がありますが、規則でできているわけではありません。つまり、母語を使うことと外国語を使うことの違いは、母語は間違っても母語らしく間違い、外国語で間違う時にはおかしな間違い方をするということです。変ないい方ですが、まちがっても母語、正しくても外国語だということです。ですから、外国語を学ぶには場数を踏んで慣れるしかありません。ただし、目的は学校の試験に通ることですから、受ける入学試験の範囲で慣れることをします。
    ◆一番よい慣れる方法は体感することです。まず、体感するためにフォニックス、リズム音読をやります。終了後に、その人に応じた文法の基礎、次に簡単な英文をたくさん読みます。英文の感覚に慣れたら、入学試験問題を解きます。
    ③数言語 数学の基礎をやり、数のしくみに慣れてもらいます。同時に基本計算を通して数の扱いに慣れてもらいます。その後で入学試験問題で解き方トレーニングをします。
    ◆数学の根元の考え方、なぜそうなるか、疑問に答える中で、インド式計算、平方根、累乗、文字式の計算に慣れていきます。さらに、一次・二次方程式、関数、三角比、確率を中心に学び、その上で入試問題に取り組みます。

    ※以上の内容は看護学校の受験(高卒)を中心に考えています。準看護学校は中学卒の受験条件なので、内容・科目数が違います。基本トレーニングは①国語は同じ、②英語もほぼ同じ、③数学は基本は同じですが、科目内容は大分変わります。理科・社会も入学試験にはありますが、対応します。

     

     

  • 習うより慣れろは正しい

    習うより慣れろは正しい。
    しかし、そこに落とし穴がある。
    その人の才能に頼ることになるからだ。
    才能がない人はやはりできない。

    また、遠回りになることがある。
    また聞きの話だが、
    かつて、学校で教わらずに二次方程式の解の公式を自力で見つけた人がいたそうだ。
    誰の助けも借りずに20年以上かかったそうだ。
    学校で教われば1日で終わったかもしれない。

    それでも、習うより慣れろは正しい。
    一番の問題点は教師に教える力がないことだ。
    いくら教えても本人がわからなけらばわからない。
    教師の力は知識を与えることではない。
    ①子どもの観念を概念に高めること。
    人間は観念を持つ。観念は自分の世界からみたもののとらえ方。主観的なもの。
    概念ももののとらえ方だが、自分の思い込みではないより客観的なもの。
    人はコトバを通じて観念・概念を使うことで行動する。
    我々は観念を概念に高めれば、よりよく世界を知り、よりよく生きることができる。
    加えて
    ②その子に応じたメニューを作ること。
    ③トレーニングの成果をみきわめスケジュールを管理すること
    それがうまくいけばその子は自分で学ぶことができるようになる。

    学校では実際には一人一人を相手にできない。
    だから、全体をおさえながらできる範囲で個人に対応するしかない。
    そこで、トレーニングシステムが必要になる。
    このようなトレーニング方法、システムがないから、結局、個人の努力・才能に頼る事になる。
    これが日本の教員養成の欠陥である。子どもにも無理な努力・才能を要求することになる。

    欧米ではシステム的考え方はあるが、普通教育の教員の質が低い。
    それは、普通教育の教員の待遇が低いので、社会的地位が低く尊敬されない。
    それで人材が集まらない。普通教育のレベルが上がらない。
    それに比べると日本の教員の待遇は良く、質が高く、潜在能力が高い。
    しかし、残念なことに人材を活用する方法を知らない。

    フィンランド教育への勘違い
    日本ではフィンランド教育の評価が異様に高いがそこには誤解がある。
    まず、条件が違いすぎる。
    人口540万人ほどの小国で、国内だけで資源も労働市場も自給できないから、結局、国外を相手に仕事をするしかない。
    国内では外国に売れるものを作り、国外では働く者は幹部にならないと国が豊かにならない。
    そのため国民全体に高等教育を要求する。
    実際に、医療や福祉は決まった予算の総額を就業人数で割る形なので賃金が安い。
    医師でも給与は高くない。医療・介護になると並の給与である。
    普通教育では競争をさせなくても、日本と比べて高等教育のレベルと競争が恐ろしく厳しい。
    「子どもにフィンランドで高等教育を受けさせるのはかわいそう(在留邦人談)」
    それでも、完全に業種・職種ごとに誰が働いても賃金が同じなので、同じ賃金を払うならば言葉が通じる自国民を雇うことになる。
    外国の安い労働者の就労は抑えられ、国内の就労は守られている。
    ここまで考えると、意外にも他の欧州諸国と比べると「権利としての学習」というよりも国策としての学習の性質が強いことがわかる。
    印象とは違い。存外、自己本位な国である。小国だから許され、成り立っていられるといえよう。

    フィンランドは世界で二番目に普通教育と高等教育を接続した国である。
    (もともと普通教育と高等教育は別の性質のものである。「普通教育と高等教育」で説明)
    意外なことに、制度としての普・高接続の世界初は日本だった。
    敗戦後の学制改革で普通教育の教員資格を大卒(理念としては高等教育を受けた者)とした。
    旧制の師範学校(小学校教員養成)は中等教育、つまり、現在の高卒という事になる。
    残念ながら、日本は世界初の快挙を生かしきれていない。

  • 理解するとは#2

    「2)理解の基準は示せるか」を取り上げるためにまず、「誤差論」の話をします。正確にいえば「直接測定」といわれる分野の話です。
    誤差というのは普通の会話でも使うことがある言葉です。これは正しい値があって、測った数字が正しいものからずれているという考え方です。ところが、現在の工学(応用科学技術)の世界では「誤差」という言葉は使わないようになってきています。理屈の上では正しい数字はありえても、測るごとに数字が変わり、正しい値を測ることはできないという現実からきています。
    私が小学生のころ自宅から学校まで歩測するということをさせられました。まず、自分の歩幅を調べます。短い距離を何度か歩いて何歩で歩いたかを調べ、平均をとって一歩の歩幅を決めるのです。できるだけその歩幅で家から学校までを歩きます。歩数×歩幅で距離を計算することができます。伊能忠敬が日本地図を作った時にも使った方法です。実際には、素人がやるとかなりのばらつきが生まれます。現在、GPS測量やレーザー測量が普通の人でもできますから、結構正確な測量ができるはずです。
    では、歩測は間違いでGPSやレーザーは正しいのでしょうか。誤差の立場でいうとそうなります。正しい数字があってそれからどれだけ離れていると捉えればそうなりますから。しかし、それに対して現在の計測についての考え方からすると、正しい正しくないではなくばらつきの大小ということになります。ばらつきは大きくても小さくても常に測定値にはばらつきが生まれます。技術でそのばらつきを小さくしようと改良をしているわけです。

    前置きが長くなりましたが言いたいことはこうです。まさに「理解」することは計測の話と同じだと言いたいのです。正しい理解があるのではなくばらつきの中で、伝える精度受け取りの精度を高めるしかないということです。前回「理解は誤解」と言いました。その理由は二つにまとめることができます。
    ①必ず自分の意識というフィルターなしでの言語理解はあり得ない。(大前提)
    ②伝え合うことは「了解」行為であり、必ずしも理解を意味していない。(実際)
    そうすると、「理解」のために必要なのはこの二つから生まれるばらつきを小さくすることにあります。

    さて、言葉の話に戻ります。伝える目的とはどんなことなのでしょう。これは何をもって基準とするかと深いかかわりがあるはずです。
    外国人(外国文化で育った人を指します)が一方的に言いまくるので目に遭ったり、議論が好きなんだなと体感した人も多いと思います。まさに、これは理由①②からきています。もともと伝わりにくいのであれば一方的に自分の意思を伝えるために話続ければいいのです。言いたいことを言いたいだけ言えばいいのです。ここでは「意思」を(理解ではありませんよ)伝えているのですから。相手が了解してくれればいいのです。たいていの日本人はここで根負けするか、話を打ち切ってしまいます。話し手の判定勝ちです。
    ところが、相手が受けてたったらどうなるでしょう。決着がつくまでの無制限一本勝負となります。ここで初めて実務的な「理解」の必要が生まれるのです。その必要からネゴシエーション(交渉)の技術が生み出されます。彼らはお互いに理解し合えるのは幻想であると無意識にまたは意識的に体感しているので、かえって主張する必要を感じているのだと思えます。
    理屈はいいから早く実際のことを話せと言いたいと思いますが、この現実を受け入れなければ「理解の基準」の意味が伝えられません。日本では伝える意思を通す人よりも、分かってくれないとすねてしまう人が多いのです。まるで、国会の強行採決と審議拒否そのままです。なぜ、議会があるか。双方の力関係をもとに交渉して成果を得るためです。だから、みんな国会中継を見ないのです。この事実を受け入れることからしか、伝える技術が必要である意味を知り、伝える方法を受け入れて(理解とは言いません)もらえないからです。
    まだ、続きます。民事訴訟の解決方法に和解という方法があります。日本ではこじれるとすぐ裁判官が両者の主張を足して二で割りましょうと言ってきます。言い分はもっともだから仲良く引き分けなさいというわけです。ところが、合衆国では「和解とはお互いの理解を意味する」というそうです。お互いが言い分を受け入れた結論として和解の手続きをするのです。合衆国ではよく企業間で数百億単位の損害賠償訴訟が起こされます。そうすると両者の間で金額・条件を公表せずに和解の声明が出されることがよくあります。実際の和解条件は数十分の一の賠償だったり、特許の交換・提携ですませたり金が動いていないことすらあります。まず、自社は権利が侵されるとこれだけの要求をするよという意思を示すこと。同時に、もしかしたら賠償額の全額が払わされたかもしれないという脅しになります。それが回りの「理解」にもなるわけです。まさに、これがネゴシエーションなわけです。理解とは交渉が生み出すものなのです。言い換えると実務では「理解」とは「意思の理解」を意味します。
    やっと前置きが終わりました。今日はここまで、次から技術的なことを取り上げます。

  • 理解するとは#1

    わりと簡単に「理解」という言葉を使う人がいます。自分は今まで人に教えるという仕事をやってきて理解ということがどれだけやっかいなことか身にしみています。お上(中央官庁や大阪府)はわりと簡単に「理解」を連発します。理解ってそんなに軽く扱えるものでしょうか。言葉には一人歩きしてもらいたくないものです。

    「理解」がやっかいな理由
    1 理解とはもともと誤解であること
    2 理解の基準は示せるか

    今回は1)を取り上げます
    1)を見た人は「えっ」と感じたと思います。そう理解とは無条件に誤解であるです。まず、私たちがよく誤解しているのはたいていは「了解」を理解と勘違いしているということです。それを説明しようとすると難しい理屈で「第二信号系」理論というものがあるのですが、できるだけ簡単に説明します。
    いま読んでいる人は「パブロフの条件反射」略して「条件反射」という言葉は国民的教養であることは知っていると思います。ワンコにご飯をあげる話です。ご飯をあげるときにベルを鳴らすと、そのうちにベルを鳴らすだけでワンコが反応するという話です。このことを「第一信号系」といいます。意味にかかわりなく起こったことに反応するから「条件反射」というわけです。実はこのことはAIにも深いかかわりがあると私は考えていますが、いつかは考えをまとめるつもりです。
    じゃ、「第二信号系」は何かといいますと、ずばり意味ということです。はい、意味と理解は深い関係があることは何となく直感してもらえると思います。AIともかかわりがあることがわかてもらえると思います。
    私たちが意識するということは頭の中に「ぼうっ」とした言葉にならないものがまず浮かびます。たいていの場合考えるというよりもまず体の方が反応してしまいます。大事なこと注意しなければならないとき(意識化する時)は「ぼうっ」としたものをコトバに置き換えようとします。ただし、その時には意識したものをコトバにすべて置き換えることはできません。意識の中にはコトバにすると消えてしまうものが多数含まれています。つまり、言葉にする(言語化)ということは意識したものからコトバに合った部分だけを切り取る作業なのです。この次元の意識を「内言」といいます。でも、まだコトバになっただけで「言葉=言語」には成りきっていません。
    先にいきます。今度は内言を他人に伝えるということを考えます。自分の意識の中では言語化されました。ところが、発語(相手に言葉で伝える)ときに自分と他人とでは言葉が指しているものは一致できないのです。お互いの経験、文化の共通点がどれだけあるかによって全く違うイメージを持っている、比較的近いイメージを持っているとかなりの揺れがあります。ここでは同じ記号(言葉)でお互いのイメージを交換し合っているわけです。ここでお互いに起こっていることは「了解」なのです。「違うけど受け取っているよ」「わからないところもあるが受け取っているよ」ということなのです。
    ところが、ほとんどの場合そのずれがあっても気にせずに伝え合って問題にはしません。我々の会話のほとんどはぼうっと聞いていてもきっとそう言っているに違いないの範囲ですんでいるからです。ずれがありながらもどうにか大きな所では成り立っている。これはみなさんが学校や社会で訓練を受け内容よりも習慣として伝えることが成り立っているからです。つきつめれば直接目をあわせて確認をしない時などは人の話など聞かずに、そうだろうと決めつけていることが多いのです。
    ところが、それですまいないことも起きることもみなさん経験済みだと思います。どうしてもぶれを少なく相手に伝えないと困るときがあります。その時、どこまで共通のものを持てば「理解」と言っていいかは、決められません。まず、本人自身が自分の意識を完全に言語化できないところに根があるうえに、自分でない他人との意識を同じにできない「わからない」という現実があるからです。実用の立場で考えれば間違いなく定義されたものを使えば理解することができるという考え方もあります。ただし、理論的には「自然言語=人の言葉」ではいくら定義しても近づくだけで同じになることはありません。そのために人間は自然を表すため「数=数言語」というものを発明しました。本当の数学の知識とはそれを知ることから始まらなくてはなりません。
    以前、本人がよく知らない外国語の歌をヘッドホンで聴いて、そのまま歌うというTVの番組がありました。耳で聞いた通り歌えばいいのだから簡単だと思っても、みんなでたらめな言葉を歌うのです。音として聞くのと言語として聴くのは全く違う働きだからです。これはいってみれば究極の誤解でしょう。人間は音声から聞きたいものを聞いているのであって、ありのままをきくことはできないのです。というよりもありのままというものは存在できないのです。必ず自分の意識というフィルターなしでの言語理解はあり得ないのです。これが「理解は誤解」ということです。
    伝わらないものを伝えようとする努力、極端にいえば、永遠の罰に近いようなしわざ(バベルの塔の話を思い出します)を意識する時に初めて真剣な対話が成り立つのです。白人たちのネゴシエーション(交渉)という習慣には伝わらないから伝えようという意思を感じます。「理解」が意味するものへの追求もなく、そのくせに「理解」を乱発している人たちがどれだ軽い人たちであるかががわかると思います。
    今回は原則論、理論で「理解」が示すものを考えました。つきつめればということです。次は実用のための条件となる「理解」を考えます。