母親ひとり親の医療の学校の受験・修学手助けします

投稿者: k.takahiro

  • 新年に当たって 気づかれない「やさしい差別」 わたしが求めるのは対等です

    新年おめでとうございます

     

    昨年は新コロナウイルス流行のために

    気が滅入るような暮らし

    それだけではなく

    仕事さえ失って明日の見通しさえ立たない人もいると思います。

     

    多くの人が生きるのに精一杯

    どころか

    先の見通しも立たないこの時勢の中で

    母親・ひとり親の多くは

     

    「子どものために家族のために生きるのが当然だ…

    きっと、大変だから無理はしない方がいい…

    母親は子どもさえ育てればいい…

    子どものことを考えないのか…

    寂しい思いをさせるのか…」

    などと言う言葉をかけられます。

    たくさんの人が仕事にあぶれている現状ではなおさらのことかもしれません。

     

    言っている人には悪気はないのかもしれませんが

    その結果

    あなたは自分で自分のことが決められない

    「なにもできない、無力な人」に仕立て上げられています。

     

    人には相手のことを「支配したいという欲求」があります。

    それを意識している人

    無意識に行っている人の違いはあります。

     

    でも

    わたしはここに差別の本質をみます。

    差別とは決して「悪意」からだけ生み出されるものではありません。

    「善意」からだって生み出されます。

     

    どちらにせよ

    その方が相手をするためには便利だからです。

    自分も善意で一生懸命世話しているんだから

    「なにもできない人」は文句を言わずに従えということです。

     

    人は人である所以は「自分の意志」にあります。

    突き詰めた例を考えると

    介護施設での生活では

    どのようにていねいに扱われていても

    たいていは保護される「無力な人」の扱いを受けます。

    マニュアルにないことはすべて許可を求める必要があり

    人として最低の楽しみさえ奪われることが普通です。

     

    わたしは介護を受けないと生活できない人でも

    「“できること”を取り上げ」たくない。

    「なにもできない、無力な人」でいてほしくないのです。

     

    「私たちから“できること”を取り上げないでほしい」 大の大人を哀れな子供扱いする「やさしい差別」

    https://ameblo.jp/otona-no-manabi/entry-12600742478.html

     

    自分が無力だと思ったときに人は生きる力を奪われてしまいます。

    だから

    「できること」だけでもやっているうちは自分の人生を生きていくことができます。

     

    人間は善意のうちに差別をする 《書評》森田洋之・加藤忠相 著『あおいけあ流 介護の世界』

    https://ameblo.jp/otona-no-manabi/entry-12502064161.html

     

    ※「認知症の私が認知症の相談にのってみたら…」(NHK 2020/12/17)

    https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4497/

     

    わたしは「母親ひとり親の医療の学校の受験・修学手助け」業というのをやっています。

    これは自立したいが一人で悩んでいる母親ひとり親のために役に立ちたいと考えたところから始めました。

     

    でも

    なかなか踏み切れる人はいませんね。

    子どもかかえて学校に行って訓練を受けるなんて大変に決まっているじゃないですか。

    思い浮かぶのは学資、通っている間の生活費、子どものことなど

    これがどうにかできないとどうしようもありません。

    ここまで考えるだけで頭がクラクラしてくるでしょうね。

    その上ではじめて受験勉強の心配です。

     

    わたしが仕事で求めること

    「対等」であること

    「ほどこさない」こと。

    それがわたしのあなたとのベストの関係だと考えるからです。

    何よりも

    これから立ち塞がるだろう困難に出会っても

    あなたに自分の両足でしっかり歩いてもらいたいからです。

     

    大分迷いましたが

    有料でなければならないと決めました。

    理由はたくさんあります。

    私が手助けを有料で合格報酬でするワケ

    https://ameblo.jp/otona-no-manabi/entry-12511365595.html

     

    わたしができるのは「手助け」です。

    といよりも手助けしかできません。

    やるのはあなたです。

    それでも

    今まで見えなかった壁の向こう側も

    人の背に乗ればはっきり見ることができます。

     

    マッテイルダケデハ ナニモカワラナイ

     

  • 母親ひとり親にとって 学ぶこととは 生きるために闘うということ

    今、コロナ禍の元で

    会社の廃業・倒産、事業の縮小で

    仕事を失った人があふれています。

     

    すでに解雇された人

    解雇されていないが休業させられている人

    このままの状態では職場そのものがなくなってしまう人

    などなど

     

    特に女子の就業者数は

    7月の総務省労働力調査では

    去年と比べて54万人も減ったと発表がありました。

     

    今まで子育てのために正規採用がむずかしく

    パートタイマーで生活していた母親ひとり親

    特にひとり親にとっては

    これからの先の生活の見通しは大変むずかしいものとなっています。

     

    あなたはそんな時勢の中で指をくわえて生活が厳しくなっていくのを黙って見ているだけなのでしょうか?

    政府・行政は

    パソコンやITの講座、保育や介護など人手が不足している業種の資格取得

    といった女子の再就職支援を進めています。

     

    しかし

    ご存じの通り、介護や保育分野は

    国が従業員1人当たり(実際には子どもや介護される人数に対して)にかなりの補助金を出しているわりには

    多くの施設では従業員は仕事に見合った給料を払ってもらえません。

    施設ごとに待遇の差がありすぎる分野です。

     

    仕事にあぶれた母親ひとり親が増える中で

    日本では雇われる方に有利な資格は「医療」しかありません。

    特に自己資金がない人は看護学校(准看護学校)で資格をとるしかありません。

    なぜ、看護学校(医療の学校)か?  その1 職業訓練の話

     

    将来の医療・福祉従事者の不足が目に見えてきています。

    今、仕事の内容から迷っている人でも

    特に女子ではこれから特別な訓練が必要であっても

    普通の仕事になっていきます。

     

    おおざっぱに言うと

    現在、総労働者数のほぼ20人1人が医療・福祉の現場で働いています。

    これが

    20年後までに

    10人に1人の割合になると予想されています。

    医療・福祉の就業数はほぼ1:1です。

    そして

    医療分野は女子の就業率が高いので

    女子労働者の7~8人に1人近くが働くことになります。

     

    わたしの事業は

    安定した生活をしたい母親ひとり親のために

    医療の資格をとるための相談・手助けをすることです。

    資格をとっている(学校に通っている)間の生活費・学資は無利子貸付や給付金があります。

    生活保護を受けることに抵抗を感じる人は

    その間貸付であっても生活保護を避けることができます。

    「母子・父子・寡婦福祉資金」をご存じですか。(私が医療の学校をすすめるわけ)

     

    確かに

    子どもを抱えて受験勉強をして

    それから2~3年の間学ぶことが簡単なことではないのは当たり前のことです。

     

    それでも

    無資格・有利にならない資格で解雇におびえながら安い賃金で暮らすのか

    それとも

    少しでも自分に有利な資格をとって自分を守るのか

    母親ひとり親にとって、学ぶこととは、生きるために闘うことです。

     

    少しでも

    あなたの不安を減らし、受験トレーニング手間を省くのがわたしの仕事です。

    行政の外郭団体で無料医療受験講座をやっている所が増えてきています。

    大変良いことだと思っています。

     

    でも

    わたしが目指しているのは

    無料で機会をつくるから「がんばってください」ではありません。

    (実際にはテキスト料・その他で数万円の費用がかかります)

     

    自腹を切って初めて人は真剣になれます。

    そのため行政の補助金や寄付金に頼り無料でやるのではなく有料という道を選びました。

    有料でやるかぎりはあなたが合格するまではわたしの責任だということです。

    あなたの真剣さに対してわたしも真剣さで答えたいということです。

     

    そこで

    雑費(+受験料)以外すべて込みで(テキスト・問題集代も)

    合格報酬・延払い制です。

    詳しくは問い合わせてください。

     

    すべては相談から始まります。

    特にわたしは始めのカウンセリングに力を入れています。

    十分に話をした上で出来るかぎり

    学ぶ条件づくり、効果的なトレーニング方法を目指します。

     

  • 数学の学び方Ⅰ

    §1 試験で点数が取れることと分かることの違い どう学んでいくか?

    意外に意外にも一番暗記が役立つ教科が数学です。
    「数学は考える筋道を追う」のではと
    真面目な教員から教わったあなた
    少なくとも受験のための学校数学は暗記科目なのです。
    これは受験指導で有名な和田秀樹さんがはっきりと言っています。
    (もしかすると、英語よりもその度合いは高いかもしれません)

    たいていの中学・高校生は使うために数学を学ぶのではなく
    試験・資格の合格のためにやっています。
    そうすると問題を解き、点数を取るのが学ぶ目的になります。

    たいていの入学試験問題は型で解くことが出来ます。
    (二次試験でまる半日使って解かせる例外的な大学もありますが)

    自分の頭で考えたりすると解答時間が間に合わなくなってしまいます。
    むしろ
    完答するよりもどれだけ効率よく部分点を稼ぐかという受験の仕方を教えるところさえあります。
    そこでは問題を解くことでさえなく
    より多くの得点することが目的になっているのです。

    それなら
    できるだけ多くの問題解答パターンを覚え、手際よく解く練習してしまう方が有効です。
    実際
    フォトグラフィックメモリーの能力があった手塚治虫さんは受験には全く困らなかったようです。
    これは一度、見たものを写真のように記憶する能力のことで
    きっと
    数学は問題解答のパターンで解けたのではないかと思います。
    当然、彼ぐらいの能力がある人なら内容は分かっての上だと思いますが。
    (サヴァン症候群の患者によく見られる能力で
    手塚さんのような高い適応能力をもった人では大変珍しいことです)

    実は数学の問題が解ける子の中でも
    やっていることの意味(意義)がよく分からなくとも
    パターンと手際の練習でけっこうな高得点をとっている子がいます。
    でも
    この子たちは受験が終わるときれいさっぱりと
    解法は忘れるし
    数学とかかわることは止めます。
    手段ならばそれもありかと思います。

    ですから
    点が取れる子と比べて点が取れない自分が劣っているなどとは全く思わなくていいのです。
    点数が取れても何をやっているかわからない子なんて珍しくありませんから。

    そこで
    どうするかです。
    わたしの考えは単純です。
    まず、国家試験受験資格を取ることを目的にしていますから
    特にむずかしい学校は避けます。
    その条件で
    必要な範囲の基礎を作ります。

    野球で言うなら
    体を故障させない(無理のない)投げ方
    球数を投げることができる
    遠投をすることができる体力(基礎力)をつくる。

    それは
    必要な暗記は求めるが、暗記に頼る形をつくらないということです。
    これは合理的な繰り返しで定着させることで可能です。
    そのためには繰り返しの中で基本的な考え方を身につけるようなプログラムが必要です。
    (KUMONの考え方などはそうです
    実際、使い方を間違わなければ効果的です)

    基礎の基礎ができれば
    あとは多少個人流でやっても
    (その人の事情に合わせても)
    成果を求めることができます。

     

     

    §2 数学は考える学問か?学校(中学・高校)数学教育での誤解

    みなさんは数学を考える学問だと教わっていませんか。
    和田秀樹さんのようにズバリ(受験)数学は暗記科目だと言い切っている人もいます。

    実際、受験数学に限らなくても入学試験のレベルが低い学校では数学は暗記科目です。
    それどころではなく、私学では私大文系コースだと
    必修選択の「数学Ⅰ・数学A(3年間合わせて週5時間)」の最低単位だけしか授業選択がないところもあります。
    (実際にはほとんど数学がない
    だから、その場しのぎで暗記した方がてっとり早いという現実があります)

    文部科学省の規則である学習指導要領では「考える科目」であるという立場をとっているようですが。
    小学校の算数では考えさせることが先走ると数学パズルのようになってしまっています。

    前書きが長くなってしまっていますが
    確かに「数学」は考える学問です。
    ただし、これは「純粋数学」と呼ばれるものです。
    (数学は「純粋数学」「応用数学」に分けることができます)
    工学(応用数学)の分野では簡易(公)式というものがあります。
    工学の公式は本来は起っている現象の分析(解析)から式をたてるものですが
    それだと式をつくると正確だがおそろしく計算がややっこしくなることが多いのです。
    それで
    理論上の裏付けとはかかわりなくても実用に問題がなければ
    大幅に少ない手数で(近似)計算できる式をつくることがよくあるのです。
    自分で公式を開発せずに簡易式を使う人は何故がわからなくても計算をしていることになります。

    数学(特に純粋数学)にとって重要なのは「無矛盾であること」です。
    実は、現在でも「負の数」や「虚数」の実在を認めていない数学者がいます。頭の中だけにあるものだと考えているということです。
    (クロネッカーという現代数学に強い影響を与えた19世紀の数学者も
    「自然数は神の作ったものだが、他は人間の作ったものである」と言っています)

    それは
    「負の数」「虚数」というものはまず数学の考え方を矛盾なく進めるために考えられたもので
    実際にあろうとなかろうとあることにした方が
    よりよく学問として実用として矛盾なく数学を広げることができたから約束として使うようになったのです。
    (だから、欧州でも「負の数」という考え方(概念)を認めるのに実際に使い始めてから500年もかかっているのです)
    そのために理屈が必要になるごとに「負の数」や「虚数」・・・などの考え方(概念)がつくられたのです。

    だから
    極端に言えば専門ではない数学教育で「負の数」「虚数」の正体を説明する必要はなく、理解する必要もないのです。
    (学者でもなければ)本当に必要なのは「正体」を理解することではなく「役割」を知ることです。
    「無理数」だって計算で正確な値が出なくても
    無理に計算せずに無理数を表す方法(記号)さえ決めてしまえばそれでいいのです。
    (実用の世界であれば仕事で困らない範囲で数字さえ計算できればいいのです。
    このあたりに無理数って何かだまされているみたいと思えてくる理由あるのでしょう。
    正確に計算できなくても実際の長さ(量)はあるわけですから)

    この当たりに数学教育を巡る混乱の原因があるのをわかってもらえるでしょうか。
    「考え方としての数学(理論)」と「実用としての数学」にずれがあるかぎり
    この前提で数学が役に立つか立たないという理屈から
    数学を学ぶ必要のあるなしを議論できないのは当たり前のことなのです。
    (趣味で学ぶことには誰も反対しません)

    じゃあ、数学を学ぶっていったどんなことか?
    それは外国語を学ぶことと一緒です。
    外国語を学ぶことを無理やり押しつけることはできませんが
    外国語ができた方が便利なのは説明する必要もないでしょう。

    わたしは「数」のことを「数言語」と呼んでいますが
    数学を学ぶことは「数」という言葉を学ぶことなのです。
    外国語を学ぶためにはその言葉のルールや習慣を知るのは当たり前のことです。
    「数言語」も言葉ですから同じことが必要です。

    ただし
    「数言語」を使うと「自然」をより正確に書き表すことができます。
    自国語・外国語、人の使う言葉を「自然言語」とも呼びますが
    数言語は自然言語よりもより正確にサイエンス(科学)の理屈を書き表すことができます。
    サイエンスやテクノロジー(技術)で使う言語、それが「数言語」です。
    学校数学ではそのため、または、専門で学ぶ基礎にするために学ぶのが本来の目的です。
    自然言語だって考えたほうがよりよく学べるという意味で数言語だって考えたほうがいいですが
    数学の専門家を目指す者以外に無理やり理屈を考えることを求める必要もありません。

    だから
    どうすれば上手に少ない抵抗で必要なレベルの数言語を身につけてもらえるかが
    学校数学教育の正しい発想だとわたしは考えます。
    残念ながら多くの人にとって数学の実用とは言葉として自在に使うためではなく
    入学試験や資格のため(学歴)のものであるようです。
    (それも実用のうちですからわたしは別に否定もしません)

     

     

    §2 《書評》KUMONの『これでだいじょうぶ!数学シリーズ』(全5巻) 基本要素に分けて繰り返す

    問題集を「書評」するというのも普通にはないことかもしれませんが。
    わたしは教科トレーニングのためにいつもよりすぐれた方法がないか探しています。
    特に問題集では自分がどうしても作る必要があるもの以外は
    (内容が十分ではない、これまでの方法には無理がある時)
    できるだけ良いものか、その子にあったものを探します。

    その中で他の問題集と比べて
    実用的で面白いと思ったのがこのシリーズです。

    中1「文字と式」「方程式」「比例と反比例」
    中2「1次関数」「図形の証明」
    から成っています。

    この5冊は普通の問題集のように解法説明や問題例を集めるという形ではなく
    理解よりもパターンとして慣れさせることを基本にするという構成なので
    要素ごとに取り扱い方練習をするという形になっています。
    ですから
    より要素に還元できるものの取り扱いにすぐれています。

    「図形の証明」以外の4冊はなかなかよく考えられた独特のスタイルで作られています。
    KUMONは一つ一つの要素を分析しての繰り返し練習で定着させるノウハウの積み重ねをもっていて
    代数ではそれがうまく使われています。

    「図形の証明」は図形(幾何)という内容が一つ一つの要素を取り上げての繰り返し練習という方法がむずかしいのでできあがりはもう一つです。
    (図形での要素繰り返し型練習法は山崎亘さんが対策の型を考えついていますのでそのうちに紹介します)
    図形以外の4冊は同じスタイルでつくられています。

    全体によくできているので
    大人でも基本ができていない人の練習につかったらいいと思いますが
    子どもが独習(場合によったら大人でも)するためには不十分なところがあります。

    「文字と式」は全体の基礎編に当たるので非常にていねいにルールや間違いやすいところをおさえてあります。
    このあたりはKUMONが最も得意とするところでしょう。

    「方程式」「比例と反比例」は説明で理解を求めるよりも
    示されたことにしたがい要点を繰り返していくかたち体に染みこませるやり方です。
    ポイントはさすがに経験とデータで押さえていますが
    導入部では編者の思いつきが空回りして
    説明が不足してかえって混乱するかなと思うところがあります。
    ここは大人、教師の手助けが必要だと思います。
    このあたりに自学自習式であるはずの公文式が教師の力量で成果が変わるという矛盾点があります。
    詳しくは
    ※「再論 公文式・水道方式 教師の力量を求めるものはどちらか?
    https://ameblo.jp/otona-no-manabi/entry-12541190491.html

    「1次関数」は中学代数の集大成という面がありますので
    ここまでの基本が出来上がっているという条件なら
    非常にていねいにくわしく取り扱っていると思います。

    どちらにしても
    他社にはない体感と繰り返しを優先するという独特のスタイルの問題集です。

  • 数学の基礎Ⅰ

    §1 数には種類がある 自然数、整数、有理数、無理数、虚数

    数には種類があります。
    なぜ、数にはいろいろな種類があるのでしょうか。

    現代数学は自由な前提から始まり論理が通ればよいとするものです。
    ですから
    数が実在するかどうかは問いません。
    数が実在であるのか、観念であるのかは結論が出ていません。

    数はもともとは自然数(1,2,3・・・)から始まりましたが
    計算の必要で種類が増えていきました。

    計算の幅が広がって新しい数が必要になると
    実際にそれがあるかどうか疑問をもっても
    計算の必要上認めるという態度を取ってきました。

    その最たるものが「虚数(imaginary number=想像された数)」です。
    日本語では「ウソの数」か「存在しない数」という意味になります。
    (でも、工学・物理学では世界は虚数で出来ているといってもいいくらい大事な数です。
    虚数は「ない数」ではなく数直線の上にはない数と言った方がいいのかも。)

    数の種類には自然数、整数、有理数、実数(無理数)、複素数(虚数)があります。

    ①自然数(natural number) 目に見えるものを指すことから生まれた数です。
    だから、負の数や分数、小数は入りません。それと0も入りません。
    加法(足し算)と乗法(掛け算)が計算できます。

    3×4=3+3+3+3 というふうに
    掛け算は足し算の繰り返しと考えられています。

    ②整数(integer)
    自然数に0と負(マイナス)の数を加えたものです。
    自然数だけでは引き算ができないことに気づき
    小さな数から大きな数を引いたときに表す必要から考えられた数です。
    (自然数では「2+3」の答えは表せても「3-5」の答えを表すことができない)

    ですから、3~400年前までは計算の都合のことであり数とは考えられていませんでした。
    同じように、ないことを表す「0」も自然に思いつくことはありませんでした。
    「0」の発見は人類史上の大発明とされています。
    負の整数は同じ大きさ(絶対値)の正の整数と足すと0になる数と定義されます。

    ③有理数(rational number 比で示される数=割り切れる数)
    簡単に言えば分数のことです。
    (整数も一分のいくらが省略された分数と考えることができます)

    割り算や分数が必要になると整数の範囲では示すことができません。
    物は実際に割ることができるものとできないものがあって
    割る(分ける)ということはなかなかむずかしい考え方でした。
    「整数は神が創ったが、それ以外の数は人間が作った」と言った数学者さえいました。

    個数ではなく量で量ることができるものについては大昔から分数が使われてきましたが
    「小数」が当たり前に使われるようになってからわずか400年ぐらいの歴史しかありません。
    (アイデアとしてありましたが実用化されませんでした)
    100分のいくつ、1000分のいくつ・・・と考えていけば小数は分数の一種と考えることができますが
    このアイデアが実用化されるまでに分数を使い始めてから数千年かかったのです。

    分数はそのまま比を表しますから
    (有理数とは本来は比であらわすことができる数を指します)
    分数に出来るということは割り切れる事を意味します。
    「1/3は割り切れないだろう」という人もいるかもしれませんが
    これは数の表し方のせいであってわりきれていないわけではありません。
    (普通は極限という考え方で説明しますが)
    割り切れない分数は小数にすると「循環小数」といってあるところから繰り返しになり無限にならびます。
    (1/3 → 0.333・・・ 、1/7 → 0.142857142857・・・ というふうに)
    これは記数法(二進法や十進法といったもの)を変えれば割り切ることができます。

     

    自然数、整数、有理数までは直感や経験で理解することが出来ます。
    実際、古代ギリシア人はメソポタミア・エジプトの経験から生まれた計算技術を
    数学という学問にまで高めました。
    その後1500年以上にわたって
    いや、現在でも影響を与え続けています。
    現在でも幾何学はエウクレイデス(ユークリッド)の「原論」から始まります。

    しかし
    無理数や虚数となると人間の直感を越えてしまいます。
    古代の人間が拒否したのも当然と言えます。
    現在でも普通の人なら
    教科書に書いてあるから正しいのだろうが
    本当か?と思うのが自然でしょう。
    「背理法」での無理数の証明なんて何だかだまされたような気がします。
    (背理法の意味を知るためには基礎論理学(演繹)の素養が必要なのです)

    先を進めましょう。
    ④実数(real number 無理数と有理数を合わせたもの)
    実数とは実際に大きさを決めることができる数(虚数に対して)を指します。
    これは無理数と有理数を合わせたものです。

    「無理数(irrational number)」とはもともとは比で表すことができない数を指します。
    √2 や √3 なんかがそうです。
    普通は割り切れない数という理解でかまわないと思います。
    無理数は規則性がない数字が無限に並び、循環小数になることもありません。
    だから
    どんな方法をとっても割り切れることはありません。
    実際の無理数は√で示された割り切れない数やπ(円周率)といったものがあります。

    無理数が発見されたのは古代ギリシアの時代です。
    よく知られているように最初は邪魔にされました。
    古代ギリシア人にとっては割り切れないと言うことは美しくなかったのです。

    それが近代になって物理学や工学で二次(以上の)方程式を解く必要から広く使われるようになります。
    (二次方程式を計算するとxの解が普通に無理数になります)

    わたしは無理数を中学校で習ったときには何だかだまされたような気になりました。
    高校で背理法で証明してもやはり腑に落ちません。
    わたしが無理数について思ったことを書けば長くなりますでの機会を改めて書きます。

    ⑤複素数(complex number 虚数と実数をあわせたもの)
    虚数は二乗すると-(マイナス)になる数として定義されます。
    二次以上の方程式を解くとxの解が実数の範囲にないことが起きてしまいます。
    これを虚数解といいます。
    この虚数解を説明するための理屈が虚数だったのです。

    実数までの数は数直線の上の点の位置で大小を示すことができます。
    数直線というのは0を中心として右側に-、左側に+の無限の長さを取った線です。

    (数直線を減点を中心に180°回転させるとプラスとマイナスが入れ替わります これがどんなことを意味するのか考えると大変の面白いのですがここでは置いておきましょう)

    複素数はa、bを実数としてa+biの形(「i」は虚数単位)、実数+虚数の形で表されます。
    (実数はb=0、虚数はa=0の場合を指す)

    ところが虚数(二乗するとマイナスになる数)は数直線の上に点を取ることができません。
    ですから、大小がないということになります。
    これが虚数が値を取ることができないということです。
    (このあたりの理屈はわからない人にはわからないのです)
    それで、複素数を示したいときには「複素数平面」というグラフを使います。
    実軸が数直線に当たります。
    (グラフでは位置を表すためにx、yで示す)

     

    高校数学では複素数平面が正課に取り上げられたり外されたりを繰り返されています。
    大学入試の出題範囲と絡んできますから大変やっかいです。
    きっと、これは物理学や工学との絡みによるものなのでしょう。
    わたしから言わせれば日本の学校数学は数学ではなく
    工学の奴隷です。
    ※工学の数学と教養(実用)の数学との違い 普通教育にとっての数学とは
    https://ameblo.jp/otona-no-manabi/entry-12541462751.html

    工学では数そのものの理解よりも計算に慣れること(問題が解けること)が優先されます。
    わたしはこの問題は何を求めているのか(出題の意味)ということにこだわりがあったので
    問題を解くことが苦手な中学・高校生でした。

    非常におおざっぱすぎる話でしたが
    数に対する考え方(概念)は計算とともに出来上がっていったことがわかると思います。
    医療の学校の受験で必要な方程式を扱うためにはこれぐらいの知識でいいでしょう。

     

    §2 数の表し方(記数法)と循環小数(割り切れない数)との関係

    前回、有理数を取り上げました。
    有理数は分かったようでよく分からないものです。

    特に
    分数では表せるのに小数では割り切れない数(循環小数)。
    何で1/3が割り切れるのかなどという説明は
    何かだまされているような気がします。
    確かに分数で表せることが有理数の定義ですからそれで間違いないわけですが。
    *循環小数 ・・・ある桁から先で同じ数字の列が無限に繰り返される小数

    でも
    これ(循環小数)は一見割り切れないように見えますが
    実は数の書き表し方(記数法)の問題なのです。

    記数法(数の書き表し方)は
    われわれは十進数が当たり前だと思っていますが
    少しでもコンピュータの知識がある人は
    計算で二進法が使われていることは知っています。

    二進法でも小数も扱うことが出来ます。
    十進法では
    0~9の数を使い
    10になると繰り上がります
    たとえば
    「1236」は「1×10の3乗+2×10の2乗+3×10の1乗+6×1(=10の0乗)」 のことです。

    逆に
    小数点以下の場合は桁の取り方が
    1/10、1/100、1/1000・・・ と言う風になっていきます。
    「0.1236」は 1×1/10+2×1/100+3×1/1000+6×1/10000 のことです。
    (1/10は10のマイナス1乗、1/100は10のマイナス2乗・・・)

    同じように
    二進数の場合は
    0と1の数を使い
    2になると桁が繰り上がります。
    たとえば
    「1011」は 「1×2の3乗+0×2の2乗+1×2の1乗+1×2の0乗(=1)」
    10進法で表せば 1×8(→2の3乗)+0×4(→2の2乗)+1×2(→2の1乗)+1×1(→2の0乗)=11になります。

    小数点以下の場合は
    10進数では分母が1/10、1/100と10のn乗になっていきますが
    2進数では1/2、1/4、1/8というふうに
    分母が2のn乗になって数を表していきます。

    2進数のマイナス1乗、マイナス2乗・・・ を十進法で換算すると
    0.5、0.25、0.125、0.0625、0.03125・・・となります。

    ここからが本題です。
    たとえば
    十進数0.3を二進数で表すとします
    0.3=0.25+0.03125・・・ ですから
    0.010011001100110011001100110011001100110011001100110011・・・
    ご覧の通りに循環小数(小数点5桁以下1100の繰り返し)になります。

    実は、小数点付きの十進数を二進数であらわした場合ほとんどの場合循環小数になります。

    これから分かるように
    循環小数は割り切れないのではなく記数法(数の表し方)のせいであると考えることができます。
    だから
    1/3も記数法を変えれば(3進法なら)割り切れる数となります。

     

     

    §3 「率」ってどんなこと 「打率」は率なのか? 内包量と外延量

    新コロナウイルス感染騒動の中で
    やっとプロ野球も開幕しました。
    野球は記録のスポーツであり
    最多勝、勝率、安打数、打率などいろいろな数が出てきます。

    今日は「率」の話を取り上げてみます。
    本来数学で言う「率」というのは基準に対するある量の比を表すものを言います。
    その時ごとに出たら目に変化するものは率とはいえません。

    考えてみましょう。
    年間の打率が3割のバッターが今日は4打席全くヒットがない
    最終回の打席でランナーが出てワンヒットが出れば逆転勝利になる。
    このときに
    そのまま打たせるか
    代打を出すかということです。

    こんな時には
    昔、バファロウズやブルーウエイブズで監督をした仰木さんは
    五打席目にはヒットを打つ可能性が高くなると考える人でした。
    それに対して今日は全く打てていないなら
    勝つためには代打を出す方がいいと考える監督もいます。

    なぜ
    両者の考え方の違いが出てくるのでしょうか?
    それは「打率」は数学でいうところの「率」ではないからです。
    本来、同じ「率」であればすべての機会(「試行」といいます)ごとに同じ率で起きることが期待されます。

    そもそも
    同じ条件で繰り返されないものを率という考え方でとらえるのには無理があるのです。
    だから
    ばらつきはあってもいいのですが
    全体で均すと同じ条件が成り立っていなければ「率」とはいえません。

    このケースで代打を出そうと考える監督がいるのは
    バッターの打席ごとの試行(打つこと)が同じ率で安打に結びつかないことを経験で知っているからです。

    率ととらえれば
    打率3割は平均10打数当たり3安打打つことを意味します。
    確率で考えるならば
    「大数の法則」が成り立つ(だいたい最低1000回ぐらい)回数が必要です。
    ばらつきはあっても1000打数で300安打に近づいていくことを指します。
    どちらにしても
    昨日の試合では5打数3安打、今日の試合では5打数安打なしの繰り返しでは率でとらえることはできません。

    また
    仮に平均していても
    シーズン前半戦は2割で後半戦が4割では(3割バッターであっても)確率3割のバッターとはいえません。

    まあ、率のイメージとしては試合ごとに2安打の日と1安打の日があり
    ごくまれに3安打と安打なしの日があるといった感じでしょうか。
    いつもそれ以上にばらついていれば率とはいえません。

    では
    率を考えるためにもう少し突っ込んでみましょう。
    「内包量」と「外延量」とは聞き慣れない言葉だと思います。
    「内包」と「外延」は哲学・数学で使われる考え方です。
    「内包」はあるものの内側にあるもの
    「外延」はどんなものがあるかを示します

    それぞれものの性質と量を表す言葉です。
    これだけでは分かりにくいので例で示しましょう。

    「内包量」とは温度や速度のように、そのまま加え合わせても意味のない量を指します。
    50℃の水と30℃の水を加えても80℃にはなりません。
    それに対して
    「外延量」は質量・長さ・体積などの同じ種類で加え合わせることのできる量を指します。
    1mの棒を2本つなぎ合わせれば2mになります。
    同じように表される数であっても性質と量という違いがあるのです。

    ですから
    内包量は大きさよりも性質をとらえるための考え方といっていいでしょう。
    ただ、数で大小をとらえることができるので量というとらえ方をするのだと思います。

    「率」は数の「性質」を表すものですから
    多少の幅はあっても滑らかに変化しながら一定の幅の値を取るものを指します。
    その点では「打率」「勝率」と比べると「安打数」「勝数」は大変わかりやすいですね。

    同じ数で表されるのに
    その実、表しているものが違う
    このあたりに数が一筋縄ではいかないことを感じます。
    数の概念とはなんとも複雑なものです。

    そして、この「率=性質」ということの不思議さには
    掛けるとは何か、割るとはどんなことかがかかわってくるのです。

  • 計算の基礎Ⅰ

    §1 分数には二つの種類がある 混乱を招く「割合分数」と「量分数」の違い

    「割合分数」と「量分数」
    分数には直接足すことができるものとできないものがあります。
    「量分数」は互いをそのまま足すことができます。
    それに対して
    「割合分数」はそのまま互いの量を足すのではなく割合を足すことになります。

    次の例を考えてみましょう。
    A君は家で犬1頭と猫1匹と住んでいます。猫の割合は1/2です。
    Bさんは家で犬1頭と猫2匹と住んでいます。猫の割合は2/3です。
    A君はBさんと一緒に住むことにしました。
    そうすると
    「猫の割合は 1/2+2/3 だから 3/5になるね。」
    とBさんは言いました。
    この計算は正しいでしょうか?

    「量分数」は実際の大きさ(量)を表したものです。
    ですから
    具体的な量と結びついています。
    (例)  1/2m + 2/5m = 5/10m + 4/10m = 9/10m
    (50cm + 40cm = 90cm)
    この場合m(メートル)が単位になっていますから分数は割合ではなく
    1mに対しての長さを示しています。
    実際の量を示している分数です。
    長さをcmで示せば1/2mは50cm、2/5mは40cm、足せば90cmとまります。
    (ここでの通分は長さの単位を合わせるためのものです)

    それに対して「割合分数」は
    全体のうちの「割合」を示すものです。
    単位なしで使われる分数は全体を1としたときの割合を示しています。

    1/2だったら全体を1としたときの半分を
    1/3だったら全体を1としたときの1/3といったふうにです。
    ですから
    分数が示しているのはその全体の量のうちのいくつかということです。
    計算するもの同士それぞれを1とした上で計算しないと
    全く違った条件なのに計算することになります。
    (それぞれの全体の大きさをそろえる、それが「通分」になります)

    そうすると
    猫の割合は1/2+2/3= 3/6+4/6= 7/6にしなければなりません。

    学校の分数の計算問題ではたいてい全体を1に固定した「割合分数」で計算することになります。
    時々、単位を表すものとして「量分数」が使われることがあります。
    このことに気づかなければBさんのように足すことができないものを足すことになります。

    残念ながら教科制ではない小学校では教員にきちんと教科の基礎訓練をすることさえも至難の業です。
    大事なことでも教員自体も十分に分かりきって教えているわけではありません。
    (基本教科だけでも、他に国語があり、その上英語までも教えなくてはならないことになったのですから)

     

    §2 すべての計算の基本 交換法則・結合法則・分配法則

    算数と数学の根本的な違いは
    数を経験で扱うのか法則として扱うのかということです。
    結果が合えば、実際に使えればいいのか
    法則として認めた上で使うのかということです。
    (だから、文字式=一般式で表します)
    わたしは算数であっても数学につながる訓練が必要と考えています。

    小学校ではこれらを法則としてではなく計算方法として教えています。
    だから
    多くの小学校の教師は実はよく分からないまま使っています。
    (数学の訓練を受けていないからしょうがないか)
    ※「掛け算順序問題」のはなし 遠山啓さんの失敗 算数を考えずに信じる人たちがいるなんて!
    https://ameblo.jp/otona-no-manabi/entry-12566133724.html

    【交換法則】
    3+7=7+3、2×4=4×2 というように、順番を交換できるという法則。
    【結合法則】
    (2+3)+5=2+(3+5)、(3×6)×2=3×(6×2) というように、かっこをどこにつけても計算結果は同じという法則。
    【分配法則】
    3×(5+2)=3×5+3×2 というように、かっこを外せるという法則。

    ◎交換法則について
    3+7=7+3 というように、足し算は順番を交換することができます。これを、「加法の交換法則」と言います。
    文字式で書くと、a+b=b+a です。

    2×4=4×2 というように、掛け算も順番を交換することができます。これを、「乗法の交換法則」と言います。
    文字式で書くと、a×b=b×a です。

    大事なことは引き算や割り算では交換法則が成り立ちません。
    例えば、4−2≠2−4 ですし、3÷6≠6÷3 です。
    他にも、交換法則が成り立たない計算(行列積など)はたくさんあります。

    ◎結合法則について
    交換法則と違い、3 つの数が登場する法則です。

    (2+3)+5=2+(3+5) というように、足し算はどこから計算しても(どの場所にかっこをつけても)結果は同じです。
    これを、「加法の結合法則」と言います。
    文字式で書くと、(a+b)+c=a+(b+c) です。

    (3×6)×2=3×(6×2) というように、かけ算もどこから計算しても(どの場所にかっこをつけても)結果は同じです。
    これを、「乗法の結合法則」と言います。
    文字式で書くと、(a×b)×c=a×(b×c) です。

    ただし
    交換法則と同じように引き算・割り算がはいると成り立たなくなります。

    ◎しかし、成り立たせる方法があります。
    減法を加法、除法を逆数になおすことです。
    これを使えば普通の計算であれば「交換法則」と「結合法則」が成り立つということです。

    たとえば
    $引き算(減法)であれば
    4−2なら 4+(−2)というふうにです。
    数学では算数とちがって引き算は負の数を足すというとらえ方ができます。
    減法を加法になおして計算すれば、加法の交換法則・結合法則を使うことができます。

    $除法(わり算)の場合は
    除法は逆数のかけ算になおして計算するのです。
    もとの分数の分母と分子をひっくり返した数のことを「逆数」といいます。
    (たとえば 5なら5/1と見なします。すると、逆数は1/5となります)

    8÷2=8×1/2 これなら 1/2×8 が成り立ちます。
    すると、計算の順序を気にしなくてもよくなり、数の入れ替えも可能になるため、計算がやりやすくなります。
    徐法を乗法になおして計算すれば、乗法の交換法則・結合法則を使うことができます。

    まとめます。
    ・加法と乗法は交換法則・結合法則が成り立つ
    ・交換法則とは、数を入れ替えても計算結果が同じになること
    ・結合法則とは、先に計算するところが違っても、計算結果が同じになる
    ・減法は加法になおして計算することで、加法の交換法則・結合法則が使える
    ・除法は乗法になおして計算することで、乗法の交換法則・結合法則が使える

    数学で大切なのは法則性を知ることです。
    いつでも成り立つのか
    どの条件であれば成り立つのかということです。
    丸覚えがいろいろな問題を引き起こします。
    分配法則は代数の基本である文字式の計算にとって基礎となるものですから
    十分に理解することが必要です。

    ◎分配法則について
    交換法則や結合法則とは違い、分配法則は足し算とかけ算が同時に登場する法則です。
    (前回説明した通りに減法と除法はすべて加法と乗法と見なすことができます。
    だから、減法・除法でも使うことができるということです)

    3×(5+2)=3×5+3×2 というように、かっこを外せるという法則です。
    実際、左側は、3×(5+2)=3×7=21 ですし
    右側は、3×5+3×2=15+6=21 となり一致します。

    文字式で書くと、a×(b+c)=a×b+a×c です。

    このように計算式の( )をなくす法則を「分配法則」と呼んでいるわけです。

    分配法則がなぜ足り立つのか説明します。
    a×(b+c)とは
    (b+c)+(b+c) ・・・ (b+c)をa回足すこと

    これをbとcに分けて足していきます
    (b+b・・・+b)はbをa回足すこと→ a×b
    (c+c・・・+c)はcをa回足すこと→ a×c
    一時そうすると
    (b+b・・・+b)+(c+c・・・+c)=a×b+a×c

    よって
    a×(b+c)=a×b+a×c

    一時、話題になった「インド式算数」は暗算をするために分配法則を使うことが多いのです。
    (分配法則だけ使うわけではないですが)

    たとえば 49×21なら
    筆算では
    49×21= 49×2×10+49×1=980+49=1029 という流れで解きます。
    分配法則を使うと
    49×21=(50-1)×21=1050-21=1029 と解けます。

    それだけではなく
    分配法則とその逆は
    文字式の展開と因数分解そのものでもあるのです。
    (a+b)(c+d)=ac+ad+bc+bd=a(c+d)+b(c+d)

    わたしも中学生のころ整式(文字式)の因数分解が何をやっているのかよくわからなかったのですが
    分配法則とその逆と分かって本当の意味で理解できました。

     

     

    §3 素因数分解と因数分解は同じもの 数学の考え方を知る

    素因数分解と因数分解、名前がよく似ていますが
    あまりその関係が考えられることはありません。
    実はこの二つは同じことをしているのです。

    たいていは
    素因数分解は約分のための
    因数分解は方程式を解くための手段と思われています。

    素因数分解とは、自然数を素数の積に分解することです。
    素因数分解の「素」は素数の「素」です。
    「素因数=素数」と考えて問題ありません。
    数の基本単位の一つと考えていいでしょう。

    「素因数」とは数学で言う自然数(1、2、3・・・)を割り切ることができる素数のこと
    *素数・・・ 1 より大きい自然数で、割り切れる数が 1 と自分自身だけのもの
    6=2×3 12=2×2×3 27=3×3×3 29=1×29 というふうにです。

    自然数(整数の場合もあります)を素数の積(掛けたもの)で表すことを「素因数分解」といいます。
    この場合、因子(要素のこと)は素数です。
    つまり、数を素数の因子に分解するから素因数分解というのです。

    因数分解は、素因数分解を発展させたものです。
    どう発展させたのかといいますと
    分解の対象を自然数から多項式(整式)に発展させています。
    *単項式・・・ 数,文字,およびそれらの積として表される式のこと
    *多項式・・・ 2つ以上の単項式の和(足したもの)として表される式のこと
    *整式・・・ 単項式と多項式を合わせて整式と言います

    つまり、文字を含んだ式でも因子(基本要素、単項式)の掛け算の形で表すことができるということです。
    ab+ac=a(b+c)、 ac+ad+bc+bd=(a+b)(c+d)

    実は、多項式は広い意味で「数」です。数の性質を持っているからです。
    自然数(整数)と多項式は非常に性質が多くの点で似ています。
    自然数を素因数分解するように、多項式も積の形に分解できます。
    多項式を積の形に分解したのが因数分解です。

    呼び方が違うのは習慣で使い分けしているからです。
    「素因数分解」は自然数に対して使う用語(整数に対して使う事もある)。
    「因数分解」は多項式に対して使う用語(一般の式に対して使う事もある)。

    ここでは
    数(自然数)で成り立っていることが文字を含んだ式でも成り立つという性質を利用して
    自然数と整式を同じように扱うことで
    計算の可能性を広げているわけです。

    こんな話を取り上げているのはトリビアのような知識をひけらかすためではありません。
    数学という考え方を示したいからです。

    普通の人は数学の発見するために数を使っているわけではありません。
    専門家や研究者以外が扱う数学とはどんなものなのでしょうか?
    わたしは研究者以外の数学(特に学校の)は数学を数言語の練習と言っています。
    それは言葉(言語)としての数学です。
    数を使って必要なことを伝えるための方法です。
    伝える・表すために数を使います。
    (受験で点数を取るためだけという邪道もありますが)

    これは「算数」でもできるわけですが
    「算数」と「数学」の間には決定的な違いがあります。
    算数は直接のものにこだわるので難度をあげるとパズルになってしまうことが多いのですが
    数学ではたえず共通点を考え理屈をより広く成り立たせることを考えます。
    そして、必要がない部分を捨てることで
    核心になるものを見つけ出しさらに共通な範囲を広げていきます。
    これを抽象化といいます。

    ここでは抽象化することで自然数と整式が同じことができることを示し
    計算の可能性を広げているのです。

     

     

    §4 方程式は「因数分解」ではなく「平方完成」で解く 新しいトレンド

    方程式を解くためには解を求めなければなりません。
    ところが
    解を求めるってどんな意味があるか分からなくても
    数学の教師の言うとおりに答えを導き出して
    問題が解ければ何となく満足感はあります。
    (解を求めることは四則演算(加減乗除)とは全く違ったことです)

    中学校・高校で扱う方程式は一次方程式と二次方程式です。
    ax+b=0  ax2+bx+c=0

    特に二次方程式を解くためにはx2をxの形に直さなければなりません。
    二次方程式を解くための訓練として標準的なやり方は
    整式の取り扱い練習→ 整式をくくる練習→ 展開公式の応用からの因数分解→ 二次方程式の解の公式を覚える
    という流れになっています。

    また
    方程式と関数は数学では別の分野なので扱いも別になります。
    方程式の解法と別の流れとして
    グラフを書く技術として「平方完成」というものが使われます。
    展開されている2次方程式を、○○²+□という形に変形することです。
    (これは方程式を解くことの応用技術なのですが)

    言ってみればこれまでは
    「方程式を解く訓練」と「グラフを書く訓練」は全く別のものとして扱われてきたわけです。
    数学の教師はそう思っていなかったかもしれませんが
    数学の授業では「方程式・関数・恒等式」の関係をきちんと説明しない(できない?)のが普通ですから
    実際には子どもの頭の中では別のものです。
    (これは次回説明します)

    でも
    最近は数学教育を専門にする人の中にはこの二つを統一して扱おうと考える人も増えてきています。
    「方程式・関数・恒等式」の関係をきちんと説明することを必要だと考える人たちです。

    これは数学教育から考えると当たり前のことなのですが
    当たり前のことが当たり前でなかったのは
    日本の試験のふるい落とし主義と
    複雑な因数分解を解くことで達成感をもたせることができるという教育効果?からきているのでしょう。
    2+2ab+b2-c2-2c-1 (解けますか)
    =(a+b+c+1)(a+b-c-1)
    むずかしいパズルのような問題で点差をつける
    というよりも
    日本の試験制度は点数の差をつけるための問題を必要とするのが真相なのでしょう。
    ですから
    因数分解を方程式や関数を扱うための技術と考えると
    必要以上の計算をさせていることになります。

    エンジニア・工学研究者の話によれば
    全体では複雑な計算でも一つ一つは
    一次方程式、二次方程式の範囲ですむことが多いと聞きます。

    しかも肝心なのはきれいに因数分解ができるのは現実の式ではほとんどないということです。
    (因数分解は整数の範囲で計算するのが約束です。
    試験問題では整数の範囲で計算できる問題しか出していないわけです。
    因数分解できなかったときに初めて解の公式が使われます)

    ですから
    解の公式を覚えなくてもよくグラフと統一して応用が出来る「平方完成」を使うことが道理にあっていると考えるのです。
    特に、医療の専門学校の受験では二次関数のグラフが間違いなく出題されますから「平方完成」は必修の技術です。
    わたしがすすめている仲松式(仲松庸次さん)でも『ひとりで学べる数学 楽らく表』では
    解き方は独特なのですが「平方完成」に基づいた解き方をしています。

    わたしもほぼ0から訓練をする人には平方完成での訓練を考えています。
    ここでは「平方完成」のやり方は説明しません。
    「平方完成」でググればていねいに説明してくれるサイトがたくさんあるからです。
    イメージだけは紹介しておきます。
      – Wikipediaより

     

    §5 一見よく似た方程式・関数・恒等式はどう違うのか

    方程式・関数・恒等式は外形が同じか、よく似ているので
    違いが分からなければ見分けがつきません。

    でも
    この違いをはっきり知ることは大変大事なことです。
    違いが分からないということは
    やっていることがよく分からないが問題だけは解けているということになります。
    (要するに丸暗記と変わらず、簡単に忘れてしまうことができるということです)

    方程式と関数は外見では見分けがつきませんが
    #「方程式」→ 特定の条件下のX(わからないもの)を求めるための式
    xは未知数と呼ばれます。
    数学では「代数」という分野になります。
    わからないものをxと置くと
    「鶴亀算」や「旅人算」のように解法を覚えなくても
    手続きを知ることで問題を解くことが出来ます。

    #「関数」→ 「特定の条件」のときのXの値を求めるもの
    もともと「関数」は英語ではfunctionといい、「働き」という意味です。
    xに対する手続きを示した式です。
    数学では「解析」という分野になります。
    もともとは「函数」と書き
    ブラックボックスを指していました。
    金を入れたら商品が出てくる自動販売機のイメージです。
    xに数字を入れてやると決まった値が出てくるしくみです。

    条件が定まったときは方程式になるので
    理屈さえわかれば機械的に方程式をいじれば解けます。

    #「恒等式」→ 等号 (=) を含む数式であって、そこに現れるあらゆる変数がどのような値にあっても、常に等号で結ばれた左右二つの数式の “値” が等しいもののこと。
    ちょっと説明が分かりにくいですが左右の式の変数にどんな数を入れても=が成り立つ式です。
    両辺の数式が=で結ばれた式は恒等式です。
    (x+a)(x+b)= x2+(a+b)x+ab といった風にです。
    abそれぞれにどんな数を入れても=の関係は変わりません。
    よく公式に使われます。

    この3種類の式は外見が似ていても意味することが全く違います。
    この違いを知ることが数学の基礎です。

    関数(函数)というものは人類の大発明の一つで
    近代科学(特に物理)、技術は関数の考え方がなければ実用にはなりませんでした。
    残念ながらそのすごさはなかなか分かりません。

    ごく一部の学者は教えてくれています。
    わたしも半世紀かかって言っていることがわかり始め
    やっと最近、そのすごさがはじめて分かってきました。
    学校教育では関数の意味することを教えるようにはなっていませんから。

    それは
    数学教師が教えるのは式の立て方と計算の仕方だけ
    科学者は自分がやっていることは当たり前なので
    考え方ではなくワザとしてとらえています。
    他人にわざわざその意味のとらえ方、説明することなど考えることなど考えることもない。
    誰も積極的に教えてくれないから気づかれないのも当然でしょう。

    実際
    Excelで関数と呼んでいても、関数が何のことか考えることはありませんね。

     

    §6 関数(函数)はなぜ人類の大発明なのか? 未来を予測するとは

    関数は「yとxの関係性を示す式」のこと。
    (xとy以外の文字でも使えます)
    いろいろな種類の関数がありますが
    二次関数だとy=ax2+bx+cのような形です。
    関数は必ずグラフに描けます。
    「関数」では決まった条件の値を計算するときは「方程式」を使います。

    もともと
    代数で「わからないものを、とりあえずXと置く」
    「わからないものはわからない!」と開き直ることで
    「どういう関係性や規則性があるか?」ということを式で表すことを始めました。
    そこで関数が生まれたわけです。

    近代科学はガリレオが数を使って法則を表すという手段で
    仮説を実験によって検証するという「科学」の方法を作り上げることから始まったのです。
    ガリレオは「自然という書物は数という言葉で書かれている」と言っています。
    (正しくはガリレオ・ガリレイなので姓のガリレイと呼ぶのが正しいのですが習慣に従います)

    では
    関数は人類の社会にどんな影響を与えたのでしょうか?
    一言で言えば「未来を予測する」ことが出来るようになったことです。
    当然、明日どんなことが起きるかを予測することではありません。
    今まで経験で予測するだけだったものを数式で予測できるようになったということです。

    たとえば
    それまで大砲の弾の飛び方は撃ってみなければ分からなかった。
    (しかも高速度撮影が出来るようになるまで見える形で弾道を記録することはできなかった)
    それに対して
    数式を使えば撃った後の将来の弾の位置を知ることが出来るようになりました。
    撃つ前に撃った後のことを予測できる。
    これが数式(関数)で未来を予測するということの意味です。

    その流れが行き着くところが「微分・積分学」です。
    数学では「解析学」とはほぼ微積分を使って関数の性質を調べることを指します。

    実際に
    学問の発達により、近世・近代には様々な自然現象がニュートン力学(古典物理学)で説明できるようになったため。
    現象のメカニズムが知られると同時に
    「原因によって一方的に結果は導かれる」という因果律や
    「全ての出来事はそれ以前の出来事で決定される」といった決定論の考えを抱く研究者も現れるようになったくらいです。

    「ラプラスの悪魔(Laplacescher Dämon)」という
    「全てを知っており、未来も予見している知性」が存在できるという考え方も提唱された。
    しかし
    20世紀初めに生まれた「量子力学」によって、決定論は原理的に不可能である事が明らかになった(不確定性原理)。これによりラプラスの悪魔は完全に否定された。
    ここで人類の知性の広大さとその限界がはっきり示されたのです。

    このように
    近代科学、現代文明は数式で関係を示すこと(関数)で出来上がったわけです。
    残念ながら学校での数学も理科も
    一つ一つの知識や公式、計算の仕方を教えてくれても
    このような一番大事なことを教えてくれません。
    わたしも半世紀の間の独習でやっと気づくことが出来ました。

     

    §7 計算はできても平方根のイメージってむずかしいですね

    二乗した結果の元の数(平方根)をイメージするのは大変むずかしいものですね。
    ピンとこないほうが自然なのでしょう。
    わたしも誤解していましたが(数学の授業ではそう教わったから)
    平方根という数が実際にあるというよりも
    二次方程式を解くために定義された数です。
    (0や負の数も引き算の計算のためにつくられた数です)

    ただ、数として扱うと都合がいいから数として扱われることになりました。
    (これを理解すると数学者クロネッガーの言った言葉である
    「自然数は神の作ったものだが、他は人間の作ったものである」の意味がよく分かります)
    そのようにつくられた数の上に成り立つ数学の考え方は科学の法則や法律や規則のようなものとは違ったものだということです。
    だから、数学は覚えるものではないのです。

    ところで
    わたしは習慣になっていますから
    11なら平方根は3と4の間になるなあ
    3の二乗は9、4の二乗なら16だから3に近い数になるはずだと頭に浮かびます。
    言ってみれば平方根とは九九の答えから掛けた数を求めることです。

    100坪(330平方メートル)の田んぼなら10×10×3.3だから
    一辺が10×√3より少し大きいからだいたい10×1.7か1.8だから17~8m四方ぐらいかと頭に浮かびます。
    九九ができていれば当然100までの平方根に当たりをつけることが出来ます。
    さらに、インド算数のように19×19までの九九をやっていると400まで平方根を使わなくても当たりをつけることが出来ます。

    特にコンピュータを扱う人なら2の累乗数は1,2,4,8,16,32・・・ 1024ぐらいまでは自然に頭に浮かびます。
    計算ではなく習慣ですから。
    数学の計算の基本は日頃からの習慣ですから。
    平方根を身につけるためには
    2,4,8,16,32・・・ 3,9,27,81・・・ 5,25,125,625・・・
    こんな累乗に慣れておくことがけっこう役に立ちます。
    何となく数学は理詰めでやっているように勘違いされていますが
    実は直感が大きいのです。
    たいていは後から理屈をつけます。

    正確ではなくとも当たりをつけられるというのは大事なことです。
    けっこう、普段の生活でもこれぐらいの計算をすることはあります。

    以前は、仕事柄、用意する箱の容量を概算したり、どれぐらいの生地や紙を用意しなければならない時なんかに大体の当たりをつけることはよくやりました。
    高い評価を受けているインド算数ではこんな風な体感を大事にしているようです。

    ただし、言っておきますが
    計算と数学はほとんど別のモノです。
    有名な数学者でも異常なほど計算が得意な人とおそろしく計算に興味がない人とに分かれます。
    たいていの現代数学の分野で使われる数は抽象的な数で(数と言うよりも概念です)
    実際の数字の計算をすることはまずありません。
    でも、数学者といえばどうしても計算が得意な人というイメージが強いようですね。

    平方根への入り口として
    故板倉聖宣さんのグループが開発した授業書《2倍3倍の世界》を紹介したいのですが
    著作権の事情から全文をUPすることができません。
    (仮設社 https://www.kasetu.co.jp/ で手に入ります)
    (参考のために授業書の一部(図を含む)を引用しましたが引用の範囲を超えているというのであれば消します)
    長さの2倍3倍と面積の2倍3倍の違いを考えていくことで平方根の考え方の基礎を知ることができます。

    Web上での解説を参考に挙げます。

    授業書<2倍3倍の世界>の一場面から 子供達は「面積2乗の法則」を見つけられるか?
    http://www2.nsknet.or.jp/~mshr/report/nibai.htm

    仮説実験授業 《 2倍3倍の世界 》 と、体積3乗の法則
    https://blog.goo.ne.jp/i30321/e/ee40ad0f1533bef240aea2b2bbc152a4?fm=rss

     

    §8 反比例は比例の反対ではない 反比例とは比例の一種?ややっこしい言葉です

    比例(正比例とも言います)と反比例の関係は反対の関係ではないのですが習慣でそう呼ばれています。
    英文では(inverse proportionality)と言います。
    これも原文の意味は「比例の反対」です。
    日本でできた言葉ではなく外国語由来であることは間違いないでしょう。
    残念ながら英英辞書でも語源はでてきません。

    反比例を一言で説明すれば「逆数に比例」することです。

    まずおさらいです。
    小学校で習う比例はxとyの比が一定である関係のことです。
    「y=ax」の別名が比例です。グラフが原点を通る直線、一次関数のことです。
    (xが2倍になればyも2倍、xが3倍になればyも3倍というふうに同じ割合だけ互いに値が増えます)

    反比例を式で書くと「y=a/x」となります。
    一次関数でも二次関数でもない、中学校で習う第3の関数です。

    「x」と「y」は「変数」と呼ばれます。
    なぜなら、「x」になにを入れるかによって「y」の値も変わる数だからです。
    一方、xの上にのっている「a」は「定数」です。
    xやyに関係なく変わらずに定まっている数だからです。
    式を変形すると
    a=xy と書くことも出来ます。
    この式からaは一定だからxが増えるとyが減り、yが増えるとxが減ることがわかります。

    1/xをxの逆数と言います。ですから1/xをzとおくと
    y=a/x(y=a×1/x)の式は y=azになります。
    こうすると比例の式で表すことができます。
    これが逆数に比例するという意味です。
    グラフにするとこうなります。

    見ただけで比例(一次関数)とは全く違うものであることがわかります。

    でも
    反比例が比例と同じようによく使われるのはけっこう実用になるからです。
    工学や物理学の分野でも、日常でもよく使われます。

    *自分の家から駅まで行くときの速さとかかる時間。
    *ある物を机に置いたときの、机と物が接する面積と圧力。
    *仕事を完成するのにかかる日数と一日あたりの仕事量。

    といったふうに全体の量がきまっているときに二つの量の関係を示すことができます。

    そこで
    反比例とよく勘違いされるのが「トレードオフの関係」です。
    ※トレードオフ・・・ 何かを得ると、別の何かを失う、相容れない関係のこと

    たとえば
    同じ分野の商品A、Bで、Aがシェアを伸ばしたらBのシェアが下がるという関係は反比例じゃないということですね。
    最近ビールの売り上げは伸びていません。
    ビール(x)と発泡酒(y、ビール以外のビールをこう呼んでおく)の売り上げを合計するとだいたい横ばいでしょう。
    すると
    発泡酒の売り上げが増えるとビールの売り上げが減る。
    ビールの売り上げが増えると発泡酒の売り上げが減る。
    これは反比例の関係ではありません。
    仮に総売上10兆円としましょう。
    そうすると
    x+y=10 となります。
    この式を変形します。
    y=-x+10
    ご覧の通りこれはxの係数が「-1」の一次関数であり、負の比例(右下がりの傾き)の式です。

    つまり、「トレードオフの関係」は一次関数で表すことができるのです。
    「トレードオフの関係」と反比例の違いがわかってもらえたでしょうか。