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カテゴリー: トレーニング

  • 数学の基礎Ⅰ

    §1 数には種類がある 自然数、整数、有理数、無理数、虚数

    数には種類があります。
    なぜ、数にはいろいろな種類があるのでしょうか。

    現代数学は自由な前提から始まり論理が通ればよいとするものです。
    ですから
    数が実在するかどうかは問いません。
    数が実在であるのか、観念であるのかは結論が出ていません。

    数はもともとは自然数(1,2,3・・・)から始まりましたが
    計算の必要で種類が増えていきました。

    計算の幅が広がって新しい数が必要になると
    実際にそれがあるかどうか疑問をもっても
    計算の必要上認めるという態度を取ってきました。

    その最たるものが「虚数(imaginary number=想像された数)」です。
    日本語では「ウソの数」か「存在しない数」という意味になります。
    (でも、工学・物理学では世界は虚数で出来ているといってもいいくらい大事な数です。
    虚数は「ない数」ではなく数直線の上にはない数と言った方がいいのかも。)

    数の種類には自然数、整数、有理数、実数(無理数)、複素数(虚数)があります。

    ①自然数(natural number) 目に見えるものを指すことから生まれた数です。
    だから、負の数や分数、小数は入りません。それと0も入りません。
    加法(足し算)と乗法(掛け算)が計算できます。

    3×4=3+3+3+3 というふうに
    掛け算は足し算の繰り返しと考えられています。

    ②整数(integer)
    自然数に0と負(マイナス)の数を加えたものです。
    自然数だけでは引き算ができないことに気づき
    小さな数から大きな数を引いたときに表す必要から考えられた数です。
    (自然数では「2+3」の答えは表せても「3-5」の答えを表すことができない)

    ですから、3~400年前までは計算の都合のことであり数とは考えられていませんでした。
    同じように、ないことを表す「0」も自然に思いつくことはありませんでした。
    「0」の発見は人類史上の大発明とされています。
    負の整数は同じ大きさ(絶対値)の正の整数と足すと0になる数と定義されます。

    ③有理数(rational number 比で示される数=割り切れる数)
    簡単に言えば分数のことです。
    (整数も一分のいくらが省略された分数と考えることができます)

    割り算や分数が必要になると整数の範囲では示すことができません。
    物は実際に割ることができるものとできないものがあって
    割る(分ける)ということはなかなかむずかしい考え方でした。
    「整数は神が創ったが、それ以外の数は人間が作った」と言った数学者さえいました。

    個数ではなく量で量ることができるものについては大昔から分数が使われてきましたが
    「小数」が当たり前に使われるようになってからわずか400年ぐらいの歴史しかありません。
    (アイデアとしてありましたが実用化されませんでした)
    100分のいくつ、1000分のいくつ・・・と考えていけば小数は分数の一種と考えることができますが
    このアイデアが実用化されるまでに分数を使い始めてから数千年かかったのです。

    分数はそのまま比を表しますから
    (有理数とは本来は比であらわすことができる数を指します)
    分数に出来るということは割り切れる事を意味します。
    「1/3は割り切れないだろう」という人もいるかもしれませんが
    これは数の表し方のせいであってわりきれていないわけではありません。
    (普通は極限という考え方で説明しますが)
    割り切れない分数は小数にすると「循環小数」といってあるところから繰り返しになり無限にならびます。
    (1/3 → 0.333・・・ 、1/7 → 0.142857142857・・・ というふうに)
    これは記数法(二進法や十進法といったもの)を変えれば割り切ることができます。

     

    自然数、整数、有理数までは直感や経験で理解することが出来ます。
    実際、古代ギリシア人はメソポタミア・エジプトの経験から生まれた計算技術を
    数学という学問にまで高めました。
    その後1500年以上にわたって
    いや、現在でも影響を与え続けています。
    現在でも幾何学はエウクレイデス(ユークリッド)の「原論」から始まります。

    しかし
    無理数や虚数となると人間の直感を越えてしまいます。
    古代の人間が拒否したのも当然と言えます。
    現在でも普通の人なら
    教科書に書いてあるから正しいのだろうが
    本当か?と思うのが自然でしょう。
    「背理法」での無理数の証明なんて何だかだまされたような気がします。
    (背理法の意味を知るためには基礎論理学(演繹)の素養が必要なのです)

    先を進めましょう。
    ④実数(real number 無理数と有理数を合わせたもの)
    実数とは実際に大きさを決めることができる数(虚数に対して)を指します。
    これは無理数と有理数を合わせたものです。

    「無理数(irrational number)」とはもともとは比で表すことができない数を指します。
    √2 や √3 なんかがそうです。
    普通は割り切れない数という理解でかまわないと思います。
    無理数は規則性がない数字が無限に並び、循環小数になることもありません。
    だから
    どんな方法をとっても割り切れることはありません。
    実際の無理数は√で示された割り切れない数やπ(円周率)といったものがあります。

    無理数が発見されたのは古代ギリシアの時代です。
    よく知られているように最初は邪魔にされました。
    古代ギリシア人にとっては割り切れないと言うことは美しくなかったのです。

    それが近代になって物理学や工学で二次(以上の)方程式を解く必要から広く使われるようになります。
    (二次方程式を計算するとxの解が普通に無理数になります)

    わたしは無理数を中学校で習ったときには何だかだまされたような気になりました。
    高校で背理法で証明してもやはり腑に落ちません。
    わたしが無理数について思ったことを書けば長くなりますでの機会を改めて書きます。

    ⑤複素数(complex number 虚数と実数をあわせたもの)
    虚数は二乗すると-(マイナス)になる数として定義されます。
    二次以上の方程式を解くとxの解が実数の範囲にないことが起きてしまいます。
    これを虚数解といいます。
    この虚数解を説明するための理屈が虚数だったのです。

    実数までの数は数直線の上の点の位置で大小を示すことができます。
    数直線というのは0を中心として右側に-、左側に+の無限の長さを取った線です。

    (数直線を減点を中心に180°回転させるとプラスとマイナスが入れ替わります これがどんなことを意味するのか考えると大変の面白いのですがここでは置いておきましょう)

    複素数はa、bを実数としてa+biの形(「i」は虚数単位)、実数+虚数の形で表されます。
    (実数はb=0、虚数はa=0の場合を指す)

    ところが虚数(二乗するとマイナスになる数)は数直線の上に点を取ることができません。
    ですから、大小がないということになります。
    これが虚数が値を取ることができないということです。
    (このあたりの理屈はわからない人にはわからないのです)
    それで、複素数を示したいときには「複素数平面」というグラフを使います。
    実軸が数直線に当たります。
    (グラフでは位置を表すためにx、yで示す)

     

    高校数学では複素数平面が正課に取り上げられたり外されたりを繰り返されています。
    大学入試の出題範囲と絡んできますから大変やっかいです。
    きっと、これは物理学や工学との絡みによるものなのでしょう。
    わたしから言わせれば日本の学校数学は数学ではなく
    工学の奴隷です。
    ※工学の数学と教養(実用)の数学との違い 普通教育にとっての数学とは
    https://ameblo.jp/otona-no-manabi/entry-12541462751.html

    工学では数そのものの理解よりも計算に慣れること(問題が解けること)が優先されます。
    わたしはこの問題は何を求めているのか(出題の意味)ということにこだわりがあったので
    問題を解くことが苦手な中学・高校生でした。

    非常におおざっぱすぎる話でしたが
    数に対する考え方(概念)は計算とともに出来上がっていったことがわかると思います。
    医療の学校の受験で必要な方程式を扱うためにはこれぐらいの知識でいいでしょう。

     

    §2 数の表し方(記数法)と循環小数(割り切れない数)との関係

    前回、有理数を取り上げました。
    有理数は分かったようでよく分からないものです。

    特に
    分数では表せるのに小数では割り切れない数(循環小数)。
    何で1/3が割り切れるのかなどという説明は
    何かだまされているような気がします。
    確かに分数で表せることが有理数の定義ですからそれで間違いないわけですが。
    *循環小数 ・・・ある桁から先で同じ数字の列が無限に繰り返される小数

    でも
    これ(循環小数)は一見割り切れないように見えますが
    実は数の書き表し方(記数法)の問題なのです。

    記数法(数の書き表し方)は
    われわれは十進数が当たり前だと思っていますが
    少しでもコンピュータの知識がある人は
    計算で二進法が使われていることは知っています。

    二進法でも小数も扱うことが出来ます。
    十進法では
    0~9の数を使い
    10になると繰り上がります
    たとえば
    「1236」は「1×10の3乗+2×10の2乗+3×10の1乗+6×1(=10の0乗)」 のことです。

    逆に
    小数点以下の場合は桁の取り方が
    1/10、1/100、1/1000・・・ と言う風になっていきます。
    「0.1236」は 1×1/10+2×1/100+3×1/1000+6×1/10000 のことです。
    (1/10は10のマイナス1乗、1/100は10のマイナス2乗・・・)

    同じように
    二進数の場合は
    0と1の数を使い
    2になると桁が繰り上がります。
    たとえば
    「1011」は 「1×2の3乗+0×2の2乗+1×2の1乗+1×2の0乗(=1)」
    10進法で表せば 1×8(→2の3乗)+0×4(→2の2乗)+1×2(→2の1乗)+1×1(→2の0乗)=11になります。

    小数点以下の場合は
    10進数では分母が1/10、1/100と10のn乗になっていきますが
    2進数では1/2、1/4、1/8というふうに
    分母が2のn乗になって数を表していきます。

    2進数のマイナス1乗、マイナス2乗・・・ を十進法で換算すると
    0.5、0.25、0.125、0.0625、0.03125・・・となります。

    ここからが本題です。
    たとえば
    十進数0.3を二進数で表すとします
    0.3=0.25+0.03125・・・ ですから
    0.010011001100110011001100110011001100110011001100110011・・・
    ご覧の通りに循環小数(小数点5桁以下1100の繰り返し)になります。

    実は、小数点付きの十進数を二進数であらわした場合ほとんどの場合循環小数になります。

    これから分かるように
    循環小数は割り切れないのではなく記数法(数の表し方)のせいであると考えることができます。
    だから
    1/3も記数法を変えれば(3進法なら)割り切れる数となります。

     

     

    §3 「率」ってどんなこと 「打率」は率なのか? 内包量と外延量

    新コロナウイルス感染騒動の中で
    やっとプロ野球も開幕しました。
    野球は記録のスポーツであり
    最多勝、勝率、安打数、打率などいろいろな数が出てきます。

    今日は「率」の話を取り上げてみます。
    本来数学で言う「率」というのは基準に対するある量の比を表すものを言います。
    その時ごとに出たら目に変化するものは率とはいえません。

    考えてみましょう。
    年間の打率が3割のバッターが今日は4打席全くヒットがない
    最終回の打席でランナーが出てワンヒットが出れば逆転勝利になる。
    このときに
    そのまま打たせるか
    代打を出すかということです。

    こんな時には
    昔、バファロウズやブルーウエイブズで監督をした仰木さんは
    五打席目にはヒットを打つ可能性が高くなると考える人でした。
    それに対して今日は全く打てていないなら
    勝つためには代打を出す方がいいと考える監督もいます。

    なぜ
    両者の考え方の違いが出てくるのでしょうか?
    それは「打率」は数学でいうところの「率」ではないからです。
    本来、同じ「率」であればすべての機会(「試行」といいます)ごとに同じ率で起きることが期待されます。

    そもそも
    同じ条件で繰り返されないものを率という考え方でとらえるのには無理があるのです。
    だから
    ばらつきはあってもいいのですが
    全体で均すと同じ条件が成り立っていなければ「率」とはいえません。

    このケースで代打を出そうと考える監督がいるのは
    バッターの打席ごとの試行(打つこと)が同じ率で安打に結びつかないことを経験で知っているからです。

    率ととらえれば
    打率3割は平均10打数当たり3安打打つことを意味します。
    確率で考えるならば
    「大数の法則」が成り立つ(だいたい最低1000回ぐらい)回数が必要です。
    ばらつきはあっても1000打数で300安打に近づいていくことを指します。
    どちらにしても
    昨日の試合では5打数3安打、今日の試合では5打数安打なしの繰り返しでは率でとらえることはできません。

    また
    仮に平均していても
    シーズン前半戦は2割で後半戦が4割では(3割バッターであっても)確率3割のバッターとはいえません。

    まあ、率のイメージとしては試合ごとに2安打の日と1安打の日があり
    ごくまれに3安打と安打なしの日があるといった感じでしょうか。
    いつもそれ以上にばらついていれば率とはいえません。

    では
    率を考えるためにもう少し突っ込んでみましょう。
    「内包量」と「外延量」とは聞き慣れない言葉だと思います。
    「内包」と「外延」は哲学・数学で使われる考え方です。
    「内包」はあるものの内側にあるもの
    「外延」はどんなものがあるかを示します

    それぞれものの性質と量を表す言葉です。
    これだけでは分かりにくいので例で示しましょう。

    「内包量」とは温度や速度のように、そのまま加え合わせても意味のない量を指します。
    50℃の水と30℃の水を加えても80℃にはなりません。
    それに対して
    「外延量」は質量・長さ・体積などの同じ種類で加え合わせることのできる量を指します。
    1mの棒を2本つなぎ合わせれば2mになります。
    同じように表される数であっても性質と量という違いがあるのです。

    ですから
    内包量は大きさよりも性質をとらえるための考え方といっていいでしょう。
    ただ、数で大小をとらえることができるので量というとらえ方をするのだと思います。

    「率」は数の「性質」を表すものですから
    多少の幅はあっても滑らかに変化しながら一定の幅の値を取るものを指します。
    その点では「打率」「勝率」と比べると「安打数」「勝数」は大変わかりやすいですね。

    同じ数で表されるのに
    その実、表しているものが違う
    このあたりに数が一筋縄ではいかないことを感じます。
    数の概念とはなんとも複雑なものです。

    そして、この「率=性質」ということの不思議さには
    掛けるとは何か、割るとはどんなことかがかかわってくるのです。

  • 計算の基礎Ⅰ

    §1 分数には二つの種類がある 混乱を招く「割合分数」と「量分数」の違い

    「割合分数」と「量分数」
    分数には直接足すことができるものとできないものがあります。
    「量分数」は互いをそのまま足すことができます。
    それに対して
    「割合分数」はそのまま互いの量を足すのではなく割合を足すことになります。

    次の例を考えてみましょう。
    A君は家で犬1頭と猫1匹と住んでいます。猫の割合は1/2です。
    Bさんは家で犬1頭と猫2匹と住んでいます。猫の割合は2/3です。
    A君はBさんと一緒に住むことにしました。
    そうすると
    「猫の割合は 1/2+2/3 だから 3/5になるね。」
    とBさんは言いました。
    この計算は正しいでしょうか?

    「量分数」は実際の大きさ(量)を表したものです。
    ですから
    具体的な量と結びついています。
    (例)  1/2m + 2/5m = 5/10m + 4/10m = 9/10m
    (50cm + 40cm = 90cm)
    この場合m(メートル)が単位になっていますから分数は割合ではなく
    1mに対しての長さを示しています。
    実際の量を示している分数です。
    長さをcmで示せば1/2mは50cm、2/5mは40cm、足せば90cmとまります。
    (ここでの通分は長さの単位を合わせるためのものです)

    それに対して「割合分数」は
    全体のうちの「割合」を示すものです。
    単位なしで使われる分数は全体を1としたときの割合を示しています。

    1/2だったら全体を1としたときの半分を
    1/3だったら全体を1としたときの1/3といったふうにです。
    ですから
    分数が示しているのはその全体の量のうちのいくつかということです。
    計算するもの同士それぞれを1とした上で計算しないと
    全く違った条件なのに計算することになります。
    (それぞれの全体の大きさをそろえる、それが「通分」になります)

    そうすると
    猫の割合は1/2+2/3= 3/6+4/6= 7/6にしなければなりません。

    学校の分数の計算問題ではたいてい全体を1に固定した「割合分数」で計算することになります。
    時々、単位を表すものとして「量分数」が使われることがあります。
    このことに気づかなければBさんのように足すことができないものを足すことになります。

    残念ながら教科制ではない小学校では教員にきちんと教科の基礎訓練をすることさえも至難の業です。
    大事なことでも教員自体も十分に分かりきって教えているわけではありません。
    (基本教科だけでも、他に国語があり、その上英語までも教えなくてはならないことになったのですから)

     

    §2 すべての計算の基本 交換法則・結合法則・分配法則

    算数と数学の根本的な違いは
    数を経験で扱うのか法則として扱うのかということです。
    結果が合えば、実際に使えればいいのか
    法則として認めた上で使うのかということです。
    (だから、文字式=一般式で表します)
    わたしは算数であっても数学につながる訓練が必要と考えています。

    小学校ではこれらを法則としてではなく計算方法として教えています。
    だから
    多くの小学校の教師は実はよく分からないまま使っています。
    (数学の訓練を受けていないからしょうがないか)
    ※「掛け算順序問題」のはなし 遠山啓さんの失敗 算数を考えずに信じる人たちがいるなんて!
    https://ameblo.jp/otona-no-manabi/entry-12566133724.html

    【交換法則】
    3+7=7+3、2×4=4×2 というように、順番を交換できるという法則。
    【結合法則】
    (2+3)+5=2+(3+5)、(3×6)×2=3×(6×2) というように、かっこをどこにつけても計算結果は同じという法則。
    【分配法則】
    3×(5+2)=3×5+3×2 というように、かっこを外せるという法則。

    ◎交換法則について
    3+7=7+3 というように、足し算は順番を交換することができます。これを、「加法の交換法則」と言います。
    文字式で書くと、a+b=b+a です。

    2×4=4×2 というように、掛け算も順番を交換することができます。これを、「乗法の交換法則」と言います。
    文字式で書くと、a×b=b×a です。

    大事なことは引き算や割り算では交換法則が成り立ちません。
    例えば、4−2≠2−4 ですし、3÷6≠6÷3 です。
    他にも、交換法則が成り立たない計算(行列積など)はたくさんあります。

    ◎結合法則について
    交換法則と違い、3 つの数が登場する法則です。

    (2+3)+5=2+(3+5) というように、足し算はどこから計算しても(どの場所にかっこをつけても)結果は同じです。
    これを、「加法の結合法則」と言います。
    文字式で書くと、(a+b)+c=a+(b+c) です。

    (3×6)×2=3×(6×2) というように、かけ算もどこから計算しても(どの場所にかっこをつけても)結果は同じです。
    これを、「乗法の結合法則」と言います。
    文字式で書くと、(a×b)×c=a×(b×c) です。

    ただし
    交換法則と同じように引き算・割り算がはいると成り立たなくなります。

    ◎しかし、成り立たせる方法があります。
    減法を加法、除法を逆数になおすことです。
    これを使えば普通の計算であれば「交換法則」と「結合法則」が成り立つということです。

    たとえば
    $引き算(減法)であれば
    4−2なら 4+(−2)というふうにです。
    数学では算数とちがって引き算は負の数を足すというとらえ方ができます。
    減法を加法になおして計算すれば、加法の交換法則・結合法則を使うことができます。

    $除法(わり算)の場合は
    除法は逆数のかけ算になおして計算するのです。
    もとの分数の分母と分子をひっくり返した数のことを「逆数」といいます。
    (たとえば 5なら5/1と見なします。すると、逆数は1/5となります)

    8÷2=8×1/2 これなら 1/2×8 が成り立ちます。
    すると、計算の順序を気にしなくてもよくなり、数の入れ替えも可能になるため、計算がやりやすくなります。
    徐法を乗法になおして計算すれば、乗法の交換法則・結合法則を使うことができます。

    まとめます。
    ・加法と乗法は交換法則・結合法則が成り立つ
    ・交換法則とは、数を入れ替えても計算結果が同じになること
    ・結合法則とは、先に計算するところが違っても、計算結果が同じになる
    ・減法は加法になおして計算することで、加法の交換法則・結合法則が使える
    ・除法は乗法になおして計算することで、乗法の交換法則・結合法則が使える

    数学で大切なのは法則性を知ることです。
    いつでも成り立つのか
    どの条件であれば成り立つのかということです。
    丸覚えがいろいろな問題を引き起こします。
    分配法則は代数の基本である文字式の計算にとって基礎となるものですから
    十分に理解することが必要です。

    ◎分配法則について
    交換法則や結合法則とは違い、分配法則は足し算とかけ算が同時に登場する法則です。
    (前回説明した通りに減法と除法はすべて加法と乗法と見なすことができます。
    だから、減法・除法でも使うことができるということです)

    3×(5+2)=3×5+3×2 というように、かっこを外せるという法則です。
    実際、左側は、3×(5+2)=3×7=21 ですし
    右側は、3×5+3×2=15+6=21 となり一致します。

    文字式で書くと、a×(b+c)=a×b+a×c です。

    このように計算式の( )をなくす法則を「分配法則」と呼んでいるわけです。

    分配法則がなぜ足り立つのか説明します。
    a×(b+c)とは
    (b+c)+(b+c) ・・・ (b+c)をa回足すこと

    これをbとcに分けて足していきます
    (b+b・・・+b)はbをa回足すこと→ a×b
    (c+c・・・+c)はcをa回足すこと→ a×c
    一時そうすると
    (b+b・・・+b)+(c+c・・・+c)=a×b+a×c

    よって
    a×(b+c)=a×b+a×c

    一時、話題になった「インド式算数」は暗算をするために分配法則を使うことが多いのです。
    (分配法則だけ使うわけではないですが)

    たとえば 49×21なら
    筆算では
    49×21= 49×2×10+49×1=980+49=1029 という流れで解きます。
    分配法則を使うと
    49×21=(50-1)×21=1050-21=1029 と解けます。

    それだけではなく
    分配法則とその逆は
    文字式の展開と因数分解そのものでもあるのです。
    (a+b)(c+d)=ac+ad+bc+bd=a(c+d)+b(c+d)

    わたしも中学生のころ整式(文字式)の因数分解が何をやっているのかよくわからなかったのですが
    分配法則とその逆と分かって本当の意味で理解できました。

     

     

    §3 素因数分解と因数分解は同じもの 数学の考え方を知る

    素因数分解と因数分解、名前がよく似ていますが
    あまりその関係が考えられることはありません。
    実はこの二つは同じことをしているのです。

    たいていは
    素因数分解は約分のための
    因数分解は方程式を解くための手段と思われています。

    素因数分解とは、自然数を素数の積に分解することです。
    素因数分解の「素」は素数の「素」です。
    「素因数=素数」と考えて問題ありません。
    数の基本単位の一つと考えていいでしょう。

    「素因数」とは数学で言う自然数(1、2、3・・・)を割り切ることができる素数のこと
    *素数・・・ 1 より大きい自然数で、割り切れる数が 1 と自分自身だけのもの
    6=2×3 12=2×2×3 27=3×3×3 29=1×29 というふうにです。

    自然数(整数の場合もあります)を素数の積(掛けたもの)で表すことを「素因数分解」といいます。
    この場合、因子(要素のこと)は素数です。
    つまり、数を素数の因子に分解するから素因数分解というのです。

    因数分解は、素因数分解を発展させたものです。
    どう発展させたのかといいますと
    分解の対象を自然数から多項式(整式)に発展させています。
    *単項式・・・ 数,文字,およびそれらの積として表される式のこと
    *多項式・・・ 2つ以上の単項式の和(足したもの)として表される式のこと
    *整式・・・ 単項式と多項式を合わせて整式と言います

    つまり、文字を含んだ式でも因子(基本要素、単項式)の掛け算の形で表すことができるということです。
    ab+ac=a(b+c)、 ac+ad+bc+bd=(a+b)(c+d)

    実は、多項式は広い意味で「数」です。数の性質を持っているからです。
    自然数(整数)と多項式は非常に性質が多くの点で似ています。
    自然数を素因数分解するように、多項式も積の形に分解できます。
    多項式を積の形に分解したのが因数分解です。

    呼び方が違うのは習慣で使い分けしているからです。
    「素因数分解」は自然数に対して使う用語(整数に対して使う事もある)。
    「因数分解」は多項式に対して使う用語(一般の式に対して使う事もある)。

    ここでは
    数(自然数)で成り立っていることが文字を含んだ式でも成り立つという性質を利用して
    自然数と整式を同じように扱うことで
    計算の可能性を広げているわけです。

    こんな話を取り上げているのはトリビアのような知識をひけらかすためではありません。
    数学という考え方を示したいからです。

    普通の人は数学の発見するために数を使っているわけではありません。
    専門家や研究者以外が扱う数学とはどんなものなのでしょうか?
    わたしは研究者以外の数学(特に学校の)は数学を数言語の練習と言っています。
    それは言葉(言語)としての数学です。
    数を使って必要なことを伝えるための方法です。
    伝える・表すために数を使います。
    (受験で点数を取るためだけという邪道もありますが)

    これは「算数」でもできるわけですが
    「算数」と「数学」の間には決定的な違いがあります。
    算数は直接のものにこだわるので難度をあげるとパズルになってしまうことが多いのですが
    数学ではたえず共通点を考え理屈をより広く成り立たせることを考えます。
    そして、必要がない部分を捨てることで
    核心になるものを見つけ出しさらに共通な範囲を広げていきます。
    これを抽象化といいます。

    ここでは抽象化することで自然数と整式が同じことができることを示し
    計算の可能性を広げているのです。

     

     

    §4 方程式は「因数分解」ではなく「平方完成」で解く 新しいトレンド

    方程式を解くためには解を求めなければなりません。
    ところが
    解を求めるってどんな意味があるか分からなくても
    数学の教師の言うとおりに答えを導き出して
    問題が解ければ何となく満足感はあります。
    (解を求めることは四則演算(加減乗除)とは全く違ったことです)

    中学校・高校で扱う方程式は一次方程式と二次方程式です。
    ax+b=0  ax2+bx+c=0

    特に二次方程式を解くためにはx2をxの形に直さなければなりません。
    二次方程式を解くための訓練として標準的なやり方は
    整式の取り扱い練習→ 整式をくくる練習→ 展開公式の応用からの因数分解→ 二次方程式の解の公式を覚える
    という流れになっています。

    また
    方程式と関数は数学では別の分野なので扱いも別になります。
    方程式の解法と別の流れとして
    グラフを書く技術として「平方完成」というものが使われます。
    展開されている2次方程式を、○○²+□という形に変形することです。
    (これは方程式を解くことの応用技術なのですが)

    言ってみればこれまでは
    「方程式を解く訓練」と「グラフを書く訓練」は全く別のものとして扱われてきたわけです。
    数学の教師はそう思っていなかったかもしれませんが
    数学の授業では「方程式・関数・恒等式」の関係をきちんと説明しない(できない?)のが普通ですから
    実際には子どもの頭の中では別のものです。
    (これは次回説明します)

    でも
    最近は数学教育を専門にする人の中にはこの二つを統一して扱おうと考える人も増えてきています。
    「方程式・関数・恒等式」の関係をきちんと説明することを必要だと考える人たちです。

    これは数学教育から考えると当たり前のことなのですが
    当たり前のことが当たり前でなかったのは
    日本の試験のふるい落とし主義と
    複雑な因数分解を解くことで達成感をもたせることができるという教育効果?からきているのでしょう。
    2+2ab+b2-c2-2c-1 (解けますか)
    =(a+b+c+1)(a+b-c-1)
    むずかしいパズルのような問題で点差をつける
    というよりも
    日本の試験制度は点数の差をつけるための問題を必要とするのが真相なのでしょう。
    ですから
    因数分解を方程式や関数を扱うための技術と考えると
    必要以上の計算をさせていることになります。

    エンジニア・工学研究者の話によれば
    全体では複雑な計算でも一つ一つは
    一次方程式、二次方程式の範囲ですむことが多いと聞きます。

    しかも肝心なのはきれいに因数分解ができるのは現実の式ではほとんどないということです。
    (因数分解は整数の範囲で計算するのが約束です。
    試験問題では整数の範囲で計算できる問題しか出していないわけです。
    因数分解できなかったときに初めて解の公式が使われます)

    ですから
    解の公式を覚えなくてもよくグラフと統一して応用が出来る「平方完成」を使うことが道理にあっていると考えるのです。
    特に、医療の専門学校の受験では二次関数のグラフが間違いなく出題されますから「平方完成」は必修の技術です。
    わたしがすすめている仲松式(仲松庸次さん)でも『ひとりで学べる数学 楽らく表』では
    解き方は独特なのですが「平方完成」に基づいた解き方をしています。

    わたしもほぼ0から訓練をする人には平方完成での訓練を考えています。
    ここでは「平方完成」のやり方は説明しません。
    「平方完成」でググればていねいに説明してくれるサイトがたくさんあるからです。
    イメージだけは紹介しておきます。
      – Wikipediaより

     

    §5 一見よく似た方程式・関数・恒等式はどう違うのか

    方程式・関数・恒等式は外形が同じか、よく似ているので
    違いが分からなければ見分けがつきません。

    でも
    この違いをはっきり知ることは大変大事なことです。
    違いが分からないということは
    やっていることがよく分からないが問題だけは解けているということになります。
    (要するに丸暗記と変わらず、簡単に忘れてしまうことができるということです)

    方程式と関数は外見では見分けがつきませんが
    #「方程式」→ 特定の条件下のX(わからないもの)を求めるための式
    xは未知数と呼ばれます。
    数学では「代数」という分野になります。
    わからないものをxと置くと
    「鶴亀算」や「旅人算」のように解法を覚えなくても
    手続きを知ることで問題を解くことが出来ます。

    #「関数」→ 「特定の条件」のときのXの値を求めるもの
    もともと「関数」は英語ではfunctionといい、「働き」という意味です。
    xに対する手続きを示した式です。
    数学では「解析」という分野になります。
    もともとは「函数」と書き
    ブラックボックスを指していました。
    金を入れたら商品が出てくる自動販売機のイメージです。
    xに数字を入れてやると決まった値が出てくるしくみです。

    条件が定まったときは方程式になるので
    理屈さえわかれば機械的に方程式をいじれば解けます。

    #「恒等式」→ 等号 (=) を含む数式であって、そこに現れるあらゆる変数がどのような値にあっても、常に等号で結ばれた左右二つの数式の “値” が等しいもののこと。
    ちょっと説明が分かりにくいですが左右の式の変数にどんな数を入れても=が成り立つ式です。
    両辺の数式が=で結ばれた式は恒等式です。
    (x+a)(x+b)= x2+(a+b)x+ab といった風にです。
    abそれぞれにどんな数を入れても=の関係は変わりません。
    よく公式に使われます。

    この3種類の式は外見が似ていても意味することが全く違います。
    この違いを知ることが数学の基礎です。

    関数(函数)というものは人類の大発明の一つで
    近代科学(特に物理)、技術は関数の考え方がなければ実用にはなりませんでした。
    残念ながらそのすごさはなかなか分かりません。

    ごく一部の学者は教えてくれています。
    わたしも半世紀かかって言っていることがわかり始め
    やっと最近、そのすごさがはじめて分かってきました。
    学校教育では関数の意味することを教えるようにはなっていませんから。

    それは
    数学教師が教えるのは式の立て方と計算の仕方だけ
    科学者は自分がやっていることは当たり前なので
    考え方ではなくワザとしてとらえています。
    他人にわざわざその意味のとらえ方、説明することなど考えることなど考えることもない。
    誰も積極的に教えてくれないから気づかれないのも当然でしょう。

    実際
    Excelで関数と呼んでいても、関数が何のことか考えることはありませんね。

     

    §6 関数(函数)はなぜ人類の大発明なのか? 未来を予測するとは

    関数は「yとxの関係性を示す式」のこと。
    (xとy以外の文字でも使えます)
    いろいろな種類の関数がありますが
    二次関数だとy=ax2+bx+cのような形です。
    関数は必ずグラフに描けます。
    「関数」では決まった条件の値を計算するときは「方程式」を使います。

    もともと
    代数で「わからないものを、とりあえずXと置く」
    「わからないものはわからない!」と開き直ることで
    「どういう関係性や規則性があるか?」ということを式で表すことを始めました。
    そこで関数が生まれたわけです。

    近代科学はガリレオが数を使って法則を表すという手段で
    仮説を実験によって検証するという「科学」の方法を作り上げることから始まったのです。
    ガリレオは「自然という書物は数という言葉で書かれている」と言っています。
    (正しくはガリレオ・ガリレイなので姓のガリレイと呼ぶのが正しいのですが習慣に従います)

    では
    関数は人類の社会にどんな影響を与えたのでしょうか?
    一言で言えば「未来を予測する」ことが出来るようになったことです。
    当然、明日どんなことが起きるかを予測することではありません。
    今まで経験で予測するだけだったものを数式で予測できるようになったということです。

    たとえば
    それまで大砲の弾の飛び方は撃ってみなければ分からなかった。
    (しかも高速度撮影が出来るようになるまで見える形で弾道を記録することはできなかった)
    それに対して
    数式を使えば撃った後の将来の弾の位置を知ることが出来るようになりました。
    撃つ前に撃った後のことを予測できる。
    これが数式(関数)で未来を予測するということの意味です。

    その流れが行き着くところが「微分・積分学」です。
    数学では「解析学」とはほぼ微積分を使って関数の性質を調べることを指します。

    実際に
    学問の発達により、近世・近代には様々な自然現象がニュートン力学(古典物理学)で説明できるようになったため。
    現象のメカニズムが知られると同時に
    「原因によって一方的に結果は導かれる」という因果律や
    「全ての出来事はそれ以前の出来事で決定される」といった決定論の考えを抱く研究者も現れるようになったくらいです。

    「ラプラスの悪魔(Laplacescher Dämon)」という
    「全てを知っており、未来も予見している知性」が存在できるという考え方も提唱された。
    しかし
    20世紀初めに生まれた「量子力学」によって、決定論は原理的に不可能である事が明らかになった(不確定性原理)。これによりラプラスの悪魔は完全に否定された。
    ここで人類の知性の広大さとその限界がはっきり示されたのです。

    このように
    近代科学、現代文明は数式で関係を示すこと(関数)で出来上がったわけです。
    残念ながら学校での数学も理科も
    一つ一つの知識や公式、計算の仕方を教えてくれても
    このような一番大事なことを教えてくれません。
    わたしも半世紀の間の独習でやっと気づくことが出来ました。

     

    §7 計算はできても平方根のイメージってむずかしいですね

    二乗した結果の元の数(平方根)をイメージするのは大変むずかしいものですね。
    ピンとこないほうが自然なのでしょう。
    わたしも誤解していましたが(数学の授業ではそう教わったから)
    平方根という数が実際にあるというよりも
    二次方程式を解くために定義された数です。
    (0や負の数も引き算の計算のためにつくられた数です)

    ただ、数として扱うと都合がいいから数として扱われることになりました。
    (これを理解すると数学者クロネッガーの言った言葉である
    「自然数は神の作ったものだが、他は人間の作ったものである」の意味がよく分かります)
    そのようにつくられた数の上に成り立つ数学の考え方は科学の法則や法律や規則のようなものとは違ったものだということです。
    だから、数学は覚えるものではないのです。

    ところで
    わたしは習慣になっていますから
    11なら平方根は3と4の間になるなあ
    3の二乗は9、4の二乗なら16だから3に近い数になるはずだと頭に浮かびます。
    言ってみれば平方根とは九九の答えから掛けた数を求めることです。

    100坪(330平方メートル)の田んぼなら10×10×3.3だから
    一辺が10×√3より少し大きいからだいたい10×1.7か1.8だから17~8m四方ぐらいかと頭に浮かびます。
    九九ができていれば当然100までの平方根に当たりをつけることが出来ます。
    さらに、インド算数のように19×19までの九九をやっていると400まで平方根を使わなくても当たりをつけることが出来ます。

    特にコンピュータを扱う人なら2の累乗数は1,2,4,8,16,32・・・ 1024ぐらいまでは自然に頭に浮かびます。
    計算ではなく習慣ですから。
    数学の計算の基本は日頃からの習慣ですから。
    平方根を身につけるためには
    2,4,8,16,32・・・ 3,9,27,81・・・ 5,25,125,625・・・
    こんな累乗に慣れておくことがけっこう役に立ちます。
    何となく数学は理詰めでやっているように勘違いされていますが
    実は直感が大きいのです。
    たいていは後から理屈をつけます。

    正確ではなくとも当たりをつけられるというのは大事なことです。
    けっこう、普段の生活でもこれぐらいの計算をすることはあります。

    以前は、仕事柄、用意する箱の容量を概算したり、どれぐらいの生地や紙を用意しなければならない時なんかに大体の当たりをつけることはよくやりました。
    高い評価を受けているインド算数ではこんな風な体感を大事にしているようです。

    ただし、言っておきますが
    計算と数学はほとんど別のモノです。
    有名な数学者でも異常なほど計算が得意な人とおそろしく計算に興味がない人とに分かれます。
    たいていの現代数学の分野で使われる数は抽象的な数で(数と言うよりも概念です)
    実際の数字の計算をすることはまずありません。
    でも、数学者といえばどうしても計算が得意な人というイメージが強いようですね。

    平方根への入り口として
    故板倉聖宣さんのグループが開発した授業書《2倍3倍の世界》を紹介したいのですが
    著作権の事情から全文をUPすることができません。
    (仮設社 https://www.kasetu.co.jp/ で手に入ります)
    (参考のために授業書の一部(図を含む)を引用しましたが引用の範囲を超えているというのであれば消します)
    長さの2倍3倍と面積の2倍3倍の違いを考えていくことで平方根の考え方の基礎を知ることができます。

    Web上での解説を参考に挙げます。

    授業書<2倍3倍の世界>の一場面から 子供達は「面積2乗の法則」を見つけられるか?
    http://www2.nsknet.or.jp/~mshr/report/nibai.htm

    仮説実験授業 《 2倍3倍の世界 》 と、体積3乗の法則
    https://blog.goo.ne.jp/i30321/e/ee40ad0f1533bef240aea2b2bbc152a4?fm=rss

     

    §8 反比例は比例の反対ではない 反比例とは比例の一種?ややっこしい言葉です

    比例(正比例とも言います)と反比例の関係は反対の関係ではないのですが習慣でそう呼ばれています。
    英文では(inverse proportionality)と言います。
    これも原文の意味は「比例の反対」です。
    日本でできた言葉ではなく外国語由来であることは間違いないでしょう。
    残念ながら英英辞書でも語源はでてきません。

    反比例を一言で説明すれば「逆数に比例」することです。

    まずおさらいです。
    小学校で習う比例はxとyの比が一定である関係のことです。
    「y=ax」の別名が比例です。グラフが原点を通る直線、一次関数のことです。
    (xが2倍になればyも2倍、xが3倍になればyも3倍というふうに同じ割合だけ互いに値が増えます)

    反比例を式で書くと「y=a/x」となります。
    一次関数でも二次関数でもない、中学校で習う第3の関数です。

    「x」と「y」は「変数」と呼ばれます。
    なぜなら、「x」になにを入れるかによって「y」の値も変わる数だからです。
    一方、xの上にのっている「a」は「定数」です。
    xやyに関係なく変わらずに定まっている数だからです。
    式を変形すると
    a=xy と書くことも出来ます。
    この式からaは一定だからxが増えるとyが減り、yが増えるとxが減ることがわかります。

    1/xをxの逆数と言います。ですから1/xをzとおくと
    y=a/x(y=a×1/x)の式は y=azになります。
    こうすると比例の式で表すことができます。
    これが逆数に比例するという意味です。
    グラフにするとこうなります。

    見ただけで比例(一次関数)とは全く違うものであることがわかります。

    でも
    反比例が比例と同じようによく使われるのはけっこう実用になるからです。
    工学や物理学の分野でも、日常でもよく使われます。

    *自分の家から駅まで行くときの速さとかかる時間。
    *ある物を机に置いたときの、机と物が接する面積と圧力。
    *仕事を完成するのにかかる日数と一日あたりの仕事量。

    といったふうに全体の量がきまっているときに二つの量の関係を示すことができます。

    そこで
    反比例とよく勘違いされるのが「トレードオフの関係」です。
    ※トレードオフ・・・ 何かを得ると、別の何かを失う、相容れない関係のこと

    たとえば
    同じ分野の商品A、Bで、Aがシェアを伸ばしたらBのシェアが下がるという関係は反比例じゃないということですね。
    最近ビールの売り上げは伸びていません。
    ビール(x)と発泡酒(y、ビール以外のビールをこう呼んでおく)の売り上げを合計するとだいたい横ばいでしょう。
    すると
    発泡酒の売り上げが増えるとビールの売り上げが減る。
    ビールの売り上げが増えると発泡酒の売り上げが減る。
    これは反比例の関係ではありません。
    仮に総売上10兆円としましょう。
    そうすると
    x+y=10 となります。
    この式を変形します。
    y=-x+10
    ご覧の通りこれはxの係数が「-1」の一次関数であり、負の比例(右下がりの傾き)の式です。

    つまり、「トレードオフの関係」は一次関数で表すことができるのです。
    「トレードオフの関係」と反比例の違いがわかってもらえたでしょうか。

  • フランスの作文教育と考える方法

    フランスの作文教育と考える方法(中島さおり「哲学する子どもたち」より)

    わたしは現時点ではフランスの作文教育が世界で最もすぐれていると考えています。
    その理由を中島さんの著書「哲学する子どもたち」を紹介する形で説明します。

    話は「哲学」のバカロレア受験参考書から始まります。
    バカロレアは最近知られるようになりましたが共通大学入学資格試験です。
    フランスの学校で教えている「哲学」とはどんなものか?
    参考書の第1章「バカロレアにおける二つのタイプの設問に対処するための一般的な方法論」。
    この二つのタイプの設問というのは、一つが論述でもう一つがテクスト説明。
    テクスト説明は哲学者の書いた文章の抜粋が与えられて、それを論評するもの。
    中島さんはこのうち「論述」の力を取り上げて話を進めます。

    論述の出題は「芸術作品には必ず意味があるか?」というような哲学的な問いに対して、自分で仮説を立て、論証していく形式です。

    受験参考書は言う。
    「論述とはどういうものであるか。それは哲学についての言述ではなく、それ自体が哲学的な言述でなければならない。つまり、主題についての明確で厳密な問題提起に立脚して、それに対して説を唱えるものでなければならない。説とは、問題への答えである。君たちの持っている知識を使いながら、哲学において、可能な説の有効性を証明することである」

    「私が本当にすごいと思うのは、私たちが日本で高等教育を受けても一度も習わないことを、フランス人たちは、どこにでもいる高校の先生に習っているということなのだ。それはサルトルがどう考えたとか、ニーチェが何を言ったとかではない。「抽象的にものを考えて他人に示すにはどのようにやるか」という実に具体的な方法である。(中島)」
    これより詳しいことは本書を読んでもらう方がいいのですが(買って読む値打ちがある本です)

    具体的な話を進めましょう。
    論述文を書くには、まず序論、本論、結論がなければならない。これは目新しい話ではないでしょう。
    しかし、序論の内容となると日本のやり方と全く違います。

    Ⅰ 与えられた問題を自分の言葉で書き直す
    試験官はまず、受験生が問題の意味を理解したかどうかを見ます。
    そのため受験生は自分の理解を示すために問題をリライトしながら
    同時に出てくる用語を定義していきます。

    これが論を発展させるための「概念化」の作業です。
    論を立てるための基本は書き手と読み手の間で共通に言葉を使うことです。

    かつて「リセ」が旧制高校扱い(今は中等教育)だったときには
    「哲学学年」といって丸1年かけて重要な概念について学生が討論していました。
    この流れがあるから、制度が変わった今でもフランスでは極左から極右まで党派にかかわらず
    上に立つ立場の人間は同じ言葉で議論できるのです。

    Ⅱ 論理は二つ以上
    次に問題提起をします。
    問題提起というのは、「与えられた主題に、論理の一貫した答えが複数あって、それが互いに矛盾するという構図を作ること」です。
    フランスの哲学の試験では、高校生は少なくとも一人で二つの論理を発展させなければ、答案を書くことができません。
    自分の思い込みを一方的に唱えるのは「考える」ということではない。
    そう学校で教えられている。
    「異なる説を自分で発展させてみて突き合わせる知的な練習をしていれば、自分と異なる意見に耳を傾ける習慣も自然とつき、議論をするペースが築かれるだろう。まったく噛み合わない自説を主張するばかりで「いろんな意見がありますから」で終わる不毛な議論が起こる回数も減ると想像する。(中島)」

    特別の才能がなくても、普通以上の高校生であればこの訓練を受け、実行しているのです。

    「そう学校で教えられていることにまず驚いてしまう。
    異なる説を自分で発展させてみて突き合わせる知的な練習をしていれば、自分と異なる意見に耳を傾ける習慣も自然とつき、議論をするペースが築かれるだろう。まったく噛み合わない自説を主張するばかりで「いろんな意見がありますから」で終わる不毛な議論が起こる回数も減ると想像する。

    Ⅲ 対立する論点から結論へ
    複数の説を押し進め両方の説を調整して別の道を見つけ出す。
    ここが「展開部」になるわけです。
    そうすると結論にあたる部分が効果的に引き出せる。
    さらに
    「結論」は「序論」と「本論」で扱ったことの混合であってはいけない。
    「第一部と第二部で使わなかった考えを第三部のためにとっておけ」
    日本の小論文の指導がときどき、「結論は序論と同じことを繰り返せ」と言っているのとは全く違うのです。

    わたしは仕事柄今まで高校入試の膨大な量の作文を読んできましたが
    (残念ながらトップ水準の子たちの文章を読む機会はありませんでしたが)
    感想の一言
    みんな書くことが同じで
    「全然面白くな~い」「読むのが苦痛」
    当然、ここでの面白さは「受けを狙え」、「個性を主張」や「興味本位に書け」ではありません。
    文章が上手下手以前に魅力と言わなくても読み手に納得させるような文にお目にかかれないのです。

    今は少しましに成ったようですが
    一時東京大学に合格しても小学生のような文しか書けない子が少なくないと問題になりましたが。
    (東京大学の教員のリークです)

    Ⅳ 哲学者の役割
    そして
    文を書く中での引用や知識をどう考えるかということです。
    「フランスの「哲学」という科目では自分の考えを発展させることが優先されているが、だからといって、哲学者の言ったことを勉強しないで勝手に考えてよいわけではない。・・・ 哲学を学ばないで、「考える力」だけつけようとするのは、技術を学ばないで船を作ろうとするようなものだろう。」(中島)

    日本ではほとんど無視されていますが
    論文を書くときの訓練には「基礎論理学」が必要です。
    これって「哲学」の分野です。
    基礎論理学の訓練なしで(感想文ではなく)論文を書くのは大変むずかしいことです。
    当然、論理としてまとまった形ではなくても文章作法の中には含まれていなければなりません。
    フランスの普通教育では他人を無視しないように筋道をとらえさせることで
    作文を書く訓練の中で論理の基本練習がされているようです。

    ここでは知識量だけを問うのではなく
    (知識が不十分ならやっぱりよい文は書けません)
    知識が自分の中でどう捉えられているか、活かされているかが問われます。
    それを示す方法として作文があるわけです。

    儒学の一派に「陽明学」というものがあります。
    幕末の志士(勤王も佐幕も)と呼ばれた人たちを動かしたのはこの学問です。
    日本の歴史をつくった思想といってもいいでしょう。
    陽明学の基本は儒学主流の朱子学が客観(正しさ)を重く見たのに対し
    行動を重く見たことです。
    王陽明の言葉に「五経(聖典)は心の脚注(参考)である」とあります。
    陽明学は実践の学問です。
    実践で初めて知識の意味が問われるのです。
    自分の考えに文という形を与える。
    これも実践の始めといっていいでしょう。

    このような試験ではカンニングのしようもありませんが
    日本なら採点の基準で公正さが保てないとか苦情が出てくると考えるでしょう。
    (日本の新共通テストではこれが問題になっています)
    フランスでは書く方も評価する方もノウハウがあり
    苦情が出ないだけの積み重ねができているのでしょう。
    教師に説得できるだけの評価能力があるということです。
    (残念ながら日本の教員にはこれがないのです)

    でも、フランスの元大統領の回想によれば
    バカロレアの受験中に前の席に座っていた女の子が解答に困っていたようなので
    親切にも自分からすすんで代わりに答案を書いてあげて
    (残り時間で自分の答案をつくった)
    そのために自分は試験に通ったものの最優秀は逃した
    そんなことを書いていました。
    なかなかお茶目な人です。

    それでも不正入試などと騒がないのはさすがにみなさん大人です。
    (有権者として問うことは大統領としてすぐれているかどうかです)
    これぐらい博愛の人でなければフランス大統領は務まらないのでしょうかね?

    哲学に限らずフランスのバカロレアの出題は全記述の形をとり、基本的な流儀は同じになっています。
    哲学だけがという事ではないのです。

    最初はフランスの普通教育の事情を知るために偶然買った本ですが
    読み始めたら書き手の中島さんの能力の高さに腰を抜かしました。
    文章の明快さでそれがわかります。

    実は30年ほど前に当時のリセ(旧制高校)の哲学学年のしくみが非常にすぐれていると聞いて
    調べるために当時ネットもなくフランス語が読めないわたしとしてはある限りの努力をしましたが
    専門家という人たちの話がまったく分かりませんでした。
    わたしのものわかりが悪いせいかと思っていましたが
    中島さんの書いていることを読むと専門家の方が全く何も分かっていなかったというのが感想です。

    おかげで20年以上回り道をしましたが
    定年の直前にこの本に出会い
    10年来構想してきた『論文トレーニングシステム』最後の骨組が出来上がりました。
    半年後、短い文章しか書けない子に長文を書かせるための技術が解決できて完成することができました。

    ※わたしのプランの概要は次のとおりです。
    素養のある人はこれだけでわたしの方法を理解することができると思います。
    『論文トレーニングシステム』はこのプランを実現するためにフランス式作文術を日本語で訓練するための課題群です。
    (権利関係未整理のため契約者以外には公開しません)

    論文は「起承転結」で書いてはいけない これからは公の表現の訓練が必要になります
    https://ameblo.jp/otona-no-manabi/entry-12498626073.html

    考える方法と論文の作り方 公的論文の書き方 その1 全体の構図
    https://ameblo.jp/otona-no-manabi/entry-12499003548.html

    考える方法と論文の作り方 公的論文の書き方 その2 論文の形式
    https://ameblo.jp/otona-no-manabi/entry-12499330343.html

    考える方法と論文の作り方 公的論文の書き方 その3 実例とワークシート
    https://ameblo.jp/otona-no-manabi/entry-12499721374.html

  • 意見と事実-事実を正確に伝えるためには-

    「意見と事実-事実を正確に伝えるためには-」

    意識・心象の全体のことを「観念」といいます。
    人は生活を通して観念を手に入れます。
    観念は身体・感覚に密着した未分離の意識であり
    観念は「言語化(=言葉にされる)」されることによって「概念」となります。
    未分離の意識を「内言」、言語化された意識を「外言」と呼ぶ言い方もあります。
    概念のやり取りがコミュニケーションです。
    (やり取りの方法は狭い意味での言語だけとはかぎらず
    概念をやり取りできるものを言語と呼ぶことができます。
    たとえば「数」も言語です)

    概念は低次元から高次元までの階層になっています。
    各個人の意識の中では概念を通じての言語操作がなされます。
    原理的には数式の操作による演算と変わるところはありません。

    手に入れた概念が
    物事を行うこと(経験)で身体・感覚と結びついた時
    言語の身体化が起ります。
    再び、言葉と感覚が再び結びつくということです。
    これは、抽象が具体になることを指します。
    頭だけではなく体でも分かったということになります。

    概念は高い次元になるほど抽象性が増し
    交換する概念が高い次元であるほどコミュニケーションは効率的となります。
    いってみれば
    低い次元同士のコミュニケーションは何人もの通訳が入った会話のようなものです。
    手間がかかると同時に翻訳されるときに内容が変わってしまいます。
    しかし
    そのためには高い次元の概念を受け入れる力が必要となります。

    したがって
    言語学習とは
    「観念から概念の獲得→その効率的な交換→概念の身体化」という
    一連の訓練を指します。

    高い次元の概念を手に入れることで伝達の経路は効率化され
    コミュニケーションの能率を上げることができます。
    また、概念の共通化で同時に多数への意思伝達が可能になります。

    [言語学習の過程] ①観念からの概念の獲得
    ・通常の低次元の概念は生活レベルで獲得されている
    ・具体的な言葉(経験)をより抽象度が高い表現(言葉)に変える

    ②概念の操作訓練
    a語彙の抽象レベルの変換(相互的)   低次⇔高次(言い換え)
    b文の抽象レベルの変換(相互的)    低次⇔高次(言い換え)
    c文章(論理性をもった文の集合体)を構成する
    dテキスト(本文)を要約する(論理的構成の把握)
    文章を書くことが逆操作となるが、abの訓練よりもはるかに高次の作業となる。

    ※事実を正確に伝えるためには 「意見と事実」

    「意見と事実-事実を正確に伝えるためには-」 3回に分けて連載します。
    これはわたしが受講生のトレーニング用に作ったもののうちの一部です。
    特に市販されている問題集では取り上げられていない分野で訓練が必要なものは自分でテキストをつくっています。

    「意見と事実-事実を正確に伝えるためには-」 その1
    物事を記録したり報告したりする文章は、事実を正確に伝えることを主目的としている。
    また、自分の意見や主張を述べる文章においても、対象とする事象、あるいは具体的な事例など、事実を述べる部分はかなり多いはずである。
    そして、それらの事実は、書き手の解釈や意見とは区別して書くことが必要とされる。
    ところで、事実と意見とを区別するというのは、なかなか難しいことである。
    この区別を最も厳密な意味で問題にするのは、法廷での論証などの場であろうが、日常生活の中でも、両者を区別することが必要になることも多い。

    例えば、〇〇駅の改札口で午後一時に「彼」と会うことになっていたが、時間になっても「彼」が現れない、という場合を想定してみよう。その時、次のように言ったとすると、その中でどれが事実を述べた文で、どれが事実を述べていない文だろうか。

    ①彼はまだやって来ない。
    ②彼は約束を忘れた。
    ③彼はうそをついた。
    ④彼はうそつきだ。

    こうした区別はかなり微妙なものなので、まず、区別するための尺度を確認しておく。
    [事実]… 実証可能なもの。つまり、客観的に確かめられるもの。
    [推論]… 知られていることをもとに、知られていないことについて述べられたもの。
    [断定]… 書き手(話し手)の好悪の判断(好き・嫌い、よい・悪い、賛成・反対、など)を示したもの。

    ◎事実と意見
    「事実と意見」という場合の「意見」とは、このように推論や断定が加わったものをいう。さて、このように定義したうえで、右の①~④の文を検討してみる。
    ①彼はまだやって来ない。… 「事実」を述べた文
    その時周囲を見回すなどして、「彼」が来ていないことを確かめることができるので、①は事実を述べた文と言うことができる。ただし、「まだ」という語があるから事実なのであり、「まだ」がなければ少々怪しくなる。

    ②彼は約束を忘れた。… 「推論」した文
    「彼」が来なかったことに対して、それを「約束を忘れた」ためだと推測した文である。したがって、これは事実を表した文ではなく、「推論」ということになる。
    (なお、電話などで「彼」自身が「忘れた」と言うのを聞いて、それを伝えた文であれば、内容的には事実に近いものになるが、やはりこの表現のままでは事実を述べた文とはいえない。「忘れたらしい」「忘れたそうだ」などの表現を用いるべきであろう)。

    ③彼はうそをついた。… 「断定」した文
    ③は、単なる推論ではなく、「彼」が来なかったことを非難する気持ちを表した文、来なかったことを悪いことだと判断していることを表した文であり、「断定」である。もともと「うそ」というのは具体的な事柄ではなく、ある事柄を評価・分類した言葉である。

    ④彼はうそつきだ。… 決めつけた文
    これは、いわば「断定+予想」とでも呼ぶべき文であり、事実からは最も遠いことになる。つまり、④は、「彼」の人柄に対する評価・断定が加えられた文であり、具体性がないというだけにはとどまらない危険がある。「うそつきだ」という表現は、「今後もうそをつくだろう」という予想まで含んでくるのである。

    日常生活の中で、右の③や④の表現はかなり用いられているのではないか。「彼は誠実な人だ」「彼は怠け者だ」などの類である。それらが書き手(話し手)の判断であると承知していればよいのだが、それを事実と考えてしまっては困る。「誠実な人だ」「怠け者だ」という言葉は、いわば人間にレッテルをはったようなものであり、その人のすべてを一面的に分類したことになるからである。

    ※練習問題を解いてみよう。

    [1] 次の各文はそれぞれ「事実」を述べた文か、「推論」を述べた文か区別しなさい。

    ①お店でリンゴを百円で売っている。
    ②佐々木君は、友達をかばって自分からその役目を引き受けた。
    ③中村君は満足して笑っていた。
    ④昨日午後一時ごろ、校門前でバイクと軽自動車との衝突事故が起きた。
    ⑤鈴木君が包丁で切った傷口は痛そうだった。
    ⑥鈴木君は成績がよいからきっと勉強家だ。
    ⑦富士山は日本一高い山だ。
    ⑧アインシュタインは偉大な科学者だ。

    (解答)事実:①④⑦

    [2] [1]のうちの推測を述べた文はどのような条件なら事実を述べた文になるか.

    ②③⑤⑥は本人に確かめたときに、事実だと確かめることができればよい。
    ⑧については「偉大」の基準があれば判断することが出来る。

    [3] 次の(例文)a、b、c、はそれぞれ、
    ①観察した事実、あるいは誰かによって観察された「事実」についての、正しいか誤りかが確認できる発言。
    ②わかっていることをもとにわかっていないことについて「推論」した発言。
    ③話し手の評価・価値判断など「断定」を含む発言。
    である。

    (例文)
    a、敬子さんが歌を歌いながら歩いている。…… ①事実
    b、敬子さんは今日機嫌がいいのだろう。 …… ②推論
    c、敬子さんは明るくていい人だ。    …… ③断定

    同じように、次の各組の発言を(①)~(③)に分類しなさい。

    1、ア、プロ野球の××球団はやる気のないチームだ。
    イ、プロ野球の××球団は昨日で十連敗だ。
    ウ、プロ野球の××球団は今晩の試合も負けるだろう。

    2、ア、○○がまた遅刻をしている。
    イ、○○はいいかげんなやつだ。
    ウ、○○は夜更かしをしたのだろう。

    3 ア、晶くんは社会性がない人だ。
    イ、晶くんは私におはようと言わなかった。
    ウ、晶くんは私のことが嫌いなんだ。

    (解答)1、③①② 2、①③② 3、③①②

    [4] ある「断定」は、いろいろな「事実」から導き出される可能性がある。
    例のように、同じ「断定」に結びつく、異なる「事実」を考えて書きなさい。

    (例)
    断定 「○○選手は野球選手の鑑だ」
    事実1「○○選手はけがをしても試合を休んだことがない」
    事実2「○○はファンにサインを頼まれて断ったことがない」

    解答例 〇〇選手は〇〇の施設の子どもたちを試合に招待した。

    ※「断定」は「事実」がどうかよりもその人の価値判断に基づくものなので
    どのように「断定」が行われるかというしくみを知ることは
    「断定」を客観的に評価するために必要である。

    [5] 「断定」について理解するためには、一つのことがらを①よい感じの表現②悪い感じの表現と、二通りの言い方をしてみるとよい。
    例えば「役員会から提出された新規の事業計画について、社長は三日後にようやく決断を下した。」という事実に対して、

    ①よい感じの表現 … 社長はきわめて慎重に対処する。
    ②悪い感じの表現 … 社長は決断力に欠けるところがある。
    という二つの「断定」ができる。

    それでは、次のことがらについて、二通りの断定を試みてみよう。

    ア、彼はただ一人、その提案に反対し続けた。
    ①よい感じの表現
    ②悪い感じの表現
    *ヒント ①信念 ②がんこ

    (解答例)
    ①彼は自分の信念からただ一人、その提案に反対し続けた。
    ②彼は頑固さからただ一人、その提案に反対し続けた。

    イ、野球部は毎日七時過ぎまで練習をしている。
    ①よい感じの表現 →
    ②悪い感じの表現 →
    *ヒント ①一生懸命 ②だらだらと

    (解答例)
    ①野球部は毎日七時過ぎまで一生懸命練習している。
    ②野球部は毎日七時過ぎまでだらだらと練習をしている。

    ※このように同じことでも立場の違いによって同じ事実から全く正反対の内容で表現することができることに注意したい。
    自分に有利になるように文を書くのは当然のことであるが、相手が事実を有利に表現するために行っていることを鵜呑みにしてはならない。

    [文章を書く時の心得] ①文章を書く場合、事実だけを羅列したのではよい文章にはなりにくいし、書き手の意見だけを繰り返しても説得力のある文章にはならない。
    具体的な事例と、自分の判断や見解などとを、適切に組み合わせることが大切である。
    ②その際、自分の推論や断定については、それが自分の意見であることを明示した形にするよう心がけたい。
    事実と意見との区別には難しい点もあるのだが、表現方法などを工夫することによって、読み手にもよくわかるようにしたい。
    ③なお、文章中に他人の意見(著書・論文・話など)を引用することがある。とりわけ論説的な文章においては有効な方法であるが、その場合も、引用する部分と、自分の意見を述べる部分とを、明確に区別して、両者が混同しないように書かなければならない。

    2020/7/9
    ◆フランスの作文教育と考える方法(中島さおり「哲学する子どもたち」より) 前編

    わたしは現時点ではフランスの作文教育が世界で最もすぐれていると考えています。
    その理由を中島さんの著書「哲学する子どもたち」を紹介する形で説明します。

    話は「哲学」のバカロレア受験参考書から始まります。
    バカロレアは最近知られるようになりましたが共通大学入学資格試験です。
    フランスの学校で教えている「哲学」とはどんなものか?
    参考書の第1章「バカロレアにおける二つのタイプの設問に対処するための一般的な方法論」。
    この二つのタイプの設問というのは、一つが論述でもう一つがテクスト説明。
    テクスト説明は哲学者の書いた文章の抜粋が与えられて、それを論評するもの。
    中島さんはこのうち「論述」の力を取り上げて話を進めます。

    論述の出題は「芸術作品には必ず意味があるか?」というような哲学的な問いに対して、自分で仮説を立て、論証していく形式です。

    受験参考書は言う。
    「論述とはどういうものであるか。それは哲学についての言述ではなく、それ自体が哲学的な言述でなければならない。つまり、主題についての明確で厳密な問題提起に立脚して、それに対して説を唱えるものでなければならない。説とは、問題への答えである。君たちの持っている知識を使いながら、哲学において、可能な説の有効性を証明することである」

    「私が本当にすごいと思うのは、私たちが日本で高等教育を受けても一度も習わないことを、フランス人たちは、どこにでもいる高校の先生に習っているということなのだ。それはサルトルがどう考えたとか、ニーチェが何を言ったとかではない。「抽象的にものを考えて他人に示すにはどのようにやるか」という実に具体的な方法である。(中島)」
    これより詳しいことは本書を読んでもらう方がいいのですが(買って読む値打ちがある本です)

    具体的な話を進めましょう。
    論述文を書くには、まず序論、本論、結論がなければならない。これは目新しい話ではないでしょう。
    しかし、序論の内容となると日本のやり方と全く違います。

    Ⅰ 与えられた問題を自分の言葉で書き直す
    試験官はまず、受験生が問題の意味を理解したかどうかを見ます。
    そのため受験生は自分の理解を示すために問題をリライトしながら
    同時に出てくる用語を定義していきます。

    これが論を発展させるための「概念化」の作業です。
    論を立てるための基本は書き手と読み手の間で共通に言葉を使うことです。

    かつて「リセ」が旧制高校扱い(今は中等教育)だったときには
    「哲学学年」といって丸1年かけて重要な概念について学生が討論していました。
    この流れがあるから、制度が変わった今でもフランスでは極左から極右まで党派にかかわらず
    上に立つ立場の人間は同じ言葉で議論できるのです。

    Ⅱ 論理は二つ以上
    次に問題提起をします。
    問題提起というのは、「与えられた主題に、論理の一貫した答えが複数あって、それが互いに矛盾するという構図を作ること」です。
    フランスの哲学の試験では、高校生は少なくとも一人で二つの論理を発展させなければ、答案を書くことができません。
    自分の思い込みを一方的に唱えるのは「考える」ということではない。
    そう学校で教えられている。
    「異なる説を自分で発展させてみて突き合わせる知的な練習をしていれば、自分と異なる意見に耳を傾ける習慣も自然とつき、議論をするペースが築かれるだろう。まったく噛み合わない自説を主張するばかりで「いろんな意見がありますから」で終わる不毛な議論が起こる回数も減ると想像する。(中島)」

    特別の才能がなくても、普通以上の高校生であればこの訓練を受け、実行しているのです。

    「そう学校で教えられていることにまず驚いてしまう。
    異なる説を自分で発展させてみて突き合わせる知的な練習をしていれば、自分と異なる意見に耳を傾ける習慣も自然とつき、議論をするペースが築かれるだろう。まったく噛み合わない自説を主張するばかりで「いろんな意見がありますから」で終わる不毛な議論が起こる回数も減ると想像する。

    Ⅲ 対立する論点から結論へ
    複数の説を押し進め両方の説を調整して別の道を見つけ出す。
    ここが「展開部」になるわけです。
    そうすると結論にあたる部分が効果的に引き出せる。
    さらに
    「結論」は「序論」と「本論」で扱ったことの混合であってはいけない。
    「第一部と第二部で使わなかった考えを第三部のためにとっておけ」
    日本の小論文の指導がときどき、「結論は序論と同じことを繰り返せ」と言っているのとは全く違うのです。

    わたしは仕事柄今まで高校入試の膨大な量の作文を読んできましたが
    (残念ながらトップ水準の子たちの文章を読む機会はありませんでしたが)
    感想の一言
    みんな書くことが同じで
    「全然面白くな~い」「読むのが苦痛」
    当然、ここでの面白さは「受けを狙え」、「個性を主張」や「興味本位に書け」ではありません。
    文章が上手下手以前に魅力と言わなくても読み手に納得させるような文にお目にかかれないのです。

    今は少しましに成ったようですが
    一時東京大学に合格しても小学生のような文しか書けない子が少なくないと問題になりましたが。
    (東京大学の教員のリークです)

    後編に続く

    2020/7/10
    ◆フランスの作文教育と考える方法(中島さおり「哲学する子どもたち」より) 後編

    前編からの続きです

    Ⅳ 哲学者の役割
    そして
    文を書く中での引用や知識をどう考えるかということです。
    「フランスの「哲学」という科目では自分の考えを発展させることが優先されているが、だからといって、哲学者の言ったことを勉強しないで勝手に考えてよいわけではない。・・・ 哲学を学ばないで、「考える力」だけつけようとするのは、技術を学ばないで船を作ろうとするようなものだろう。」(中島)

    日本ではほとんど無視されていますが
    論文を書くときの訓練には「基礎論理学」が必要です。
    これって「哲学」の分野です。
    基礎論理学の訓練なしで(感想文ではなく)論文を書くのは大変むずかしいことです。
    当然、論理としてまとまった形ではなくても文章作法の中には含まれていなければなりません。
    フランスの普通教育では他人を無視しないように筋道をとらえさせることで
    作文を書く訓練の中で論理の基本練習がされているようです。

    ここでは知識量だけを問うのではなく
    (知識が不十分ならやっぱりよい文は書けません)
    知識が自分の中でどう捉えられているか、活かされているかが問われます。
    それを示す方法として作文があるわけです。

    儒学の一派に「陽明学」というものがあります。
    幕末の志士(勤王も佐幕も)と呼ばれた人たちを動かしたのはこの学問です。
    日本の歴史をつくった思想といってもいいでしょう。
    陽明学の基本は儒学主流の朱子学が客観(正しさ)を重く見たのに対し
    行動を重く見たことです。
    王陽明の言葉に「五経(聖典)は心の脚注(参考)である」とあります。
    陽明学は実践の学問です。
    実践で初めて知識の意味が問われるのです。
    自分の考えに文という形を与える。
    これも実践の始めといっていいでしょう。

    このような試験ではカンニングのしようもありませんが
    日本なら採点の基準で公正さが保てないとか苦情が出てくると考えるでしょう。
    (日本の新共通テストではこれが問題になっています)
    フランスでは書く方も評価する方もノウハウがあり
    苦情が出ないだけの積み重ねができているのでしょう。
    教師に説得できるだけの評価能力があるということです。
    (残念ながら日本の教員にはこれがないのです)

    でも、フランスの元大統領の回想によれば
    バカロレアの受験中に前の席に座っていた女の子が解答に困っていたようなので
    親切にも自分からすすんで代わりに答案を書いてあげて
    (残り時間で自分の答案をつくった)
    そのために自分は試験に通ったものの最優秀は逃した
    そんなことを書いていました。
    なかなかお茶目な人です。

    それでも不正入試などと騒がないのはさすがにみなさん大人です。
    (有権者として問うことは大統領としてすぐれているかどうかです)
    これぐらい博愛の人でなければフランス大統領は務まらないのでしょうかね?

    哲学に限らずフランスのバカロレアの出題は全記述の形をとり、基本的な流儀は同じになっています。
    哲学だけがという事ではないのです。

    最初はフランスの普通教育の事情を知るために偶然買った本ですが
    読み始めたら書き手の中島さんの能力の高さに腰を抜かしました。
    文章の明快さでそれがわかります。

    実は30年ほど前に当時のリセ(旧制高校)の哲学学年のしくみが非常にすぐれていると聞いて
    調べるために当時ネットもなくフランス語が読めないわたしとしてはある限りの努力をしましたが
    専門家という人たちの話がまったく分かりませんでした。
    わたしのものわかりが悪いせいかと思っていましたが
    中島さんの書いていることを読むと専門家の方が全く何も分かっていなかったというのが感想です。

    おかげで20年以上回り道をしましたが
    定年の直前にこの本に出会い
    10年来構想してきた『論文トレーニングシステム』最後の骨組が出来上がりました。
    半年後、短い文章しか書けない子に長文を書かせるための技術が解決できて完成することができました。

    ※わたしのプランの概要は次のとおりです。
    素養のある人はこれだけでわたしの方法を理解することができると思います。
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  • 国語の基礎 何から始めるか

    §1 「ふくしま式」の薦め

    直接受験のためには役にたたないが
    分かりきっているはずと思うことを
    もう一度おさらいするのが目的です。

    問題が解けているので別にかまわないと思っていることは
    普段は気になりませんが
    本当に切羽詰まったときこそ
    自分の分かっているかどうかが大きな意味をもってきます。

    特に数学を重点的に取り上げます。
    それは国語・英語に比べれば数学ははるかに短い時間で得点力をアップできるからです。
    国語・英語は上達のためにやはりそれなりの時間が必要になります。

    国語についてはこれまで何度か書いています。
    わたしは国語の基礎練習では「ふくしま式」を薦めています。
    『ふくしま式「本当の国語力」が身につく問題集』
    『ふくしま式「本当の語彙力」が身につく問題集』
    在職のころから効率よく、効果的な基礎トレーニング法を工夫してきましたが
    わたしの努力よりもこのほうがすぐれていることに気づいたからです。
    わたしは作文の訓練を通して次のレベルの訓練を工夫することに集中した方がいいと考えました。

    《小学生版》と書いてありますが、小学生でも使えるような文例で、ルビがふってあるということで
    十分大人でも手応えがあります。
    むしろ
    自学自習できないわけではありませんが
    効果的に使うためには基本をよく知っているコーチが必要になるシステムです。
    それによって何倍も効果的になり、時間も短縮できます。

    言葉を学ぶ、言葉で学ぶ(何をどう学ぶのか)
    https://ameblo.jp/otona-no-manabi/entry-12495957471.html
    書く技術の基本~言葉を増やす、論理を通す、書く形を作る
    https://ameblo.jp/otona-no-manabi/entry-12496278993.html
    国語はすでに読む時代から書くに時代に変わっています 気づかないのは学校と教員だけ
    https://ameblo.jp/otona-no-manabi/entry-12575250687.html

    なお、准看護学校の受験ですが
    本来、受験資格は中学校卒業程度ですから
    受験科目に英語がないのが普通
    数学も中学校の範囲が普通ですが
    一部の学校ではすでに高校卒・大学卒の受験が当たり前なので
    看護学校と同じ受験科目で受験させる学校がでてきています。

     

    §2 オトナは読むことよりも書くことを優先する理由

    子どもの学習が受験の形にとらわれてしまうのは
    日本社会のあり方を変えなければどうしようもないことです。

    わたしも将来の見通しということでは考えはありますが
    自分が今の受験を変えるという大それたことは考えていません。

    しかし
    オトナが学ぶということでは全く違います。
    大人にとっては受験・修学は全く手段です。
    というか割り切っていいと思います。
    (わたしの目的は大人が安定した仕事に就くことです)

    だから
    まだ先の時間がある子どもとは違って
    大人は受験を通して自分の能力を上げなければ
    ほとんどの努力が無駄になってしまいます。

    ですから
    わたしは読むことよりも書く訓練を優先させることを薦めます。
    子どもがより上のランクの大学に入るためには
    むずかしい問題を解くことを考えなければなりませんが
    わたしが薦めているのは
    実務の訓練をするための学校です。

    特にむずかしい入学試験をするところではありません。
    基本能力さえ上げれば十分な読解問題しか出ません。
    解くためのテクニックを必要としません。

    言ってみれば
    車のレースで
    テクニックを使わなくても
    より大きなエンジンを積めば勝てるレースに例えることができます。

    基本となるのは
    実務では(訓練でも)絶対に必要になる書く力をつければいいのです。

    わたしが薦めている「ふくしま式」は短文を書くことで
    読む力を付けるやり方です。
    ですから
    わたしは大人のためには書く訓練でそのまま書く能力を上げる。
    それで基本的な読む力もつけることができると考えています。

    前回は「ふくしま式」は自学自習できるものだが
    よいコーチがいると何倍も効果的になると言いました。
    「ふくしま式」はコーチが課題を正しく評価することによって
    解く者がより理解が進むトレーニング法なのです。

    いくら自学自習ができるといっても
    教材が何を目的にして
    どんな段取りでそれを進めるのかの理解が必要です。
    解答解説には説明がありますが
    これはやはり教える経験があるのとないのでは
    全く理解の度合いが違うのです。
    そこが分かって始めて効果的な評価ができるのです。

    わたしが「ふくしま式」を薦めるのも
    方針や方法、トレーニングの進め方について
    納得できるだけの検討、各セクションの使い方の理解ができたからです。

    その上で今まで何の検証もなしに勘や慣れで行われてきた国語の訓練を
    大人に必要な内容の訓練に変えていきます。

    論文は「起承転結」で書いてはいけない これからは公の表現の訓練が必要になります
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